「豊かさ」と「活力」のトレードオフ
2006年に入って、日本経済はいよいよ「復活」の気配を強めている。積み上がった政府部門の巨額の負債や社会保障システムに関する不安といった中長期的な課題は依然として重いものの、金融機関の不良債権処理に続いて、企業セクターのリストラの結果、雇用、設備、債務のいわゆる「三つの過剰」も解消されつつある。
とはいえ、それは日本経済が、バブル崩壊以降10年余にわたって続いていた病的な状況をようやく抜け出したということであって、バブル期はもちろん、それ以前の安定成長期のような成長力を取り戻すことを意味しているわけではない。日本経済は、バブル期までのような成長を続けるには、「豊か」になり過ぎている。
一般に、経済が未成熟で人々の所得水準が低い段階では、人々の所得や消費活動に対する欲求は切実で、経済全体として成長ペースを維持しやすい。産業構造の高度化や、経済発展で先行した国からの技術導入や投資の受け入れによって成長を加速できるケースも多い。しかし、その結果として所得水準が上がってくると、人々の欲求は切実さを失い、成長ペースは次第に低下する。
本質的にはともかく、現代の資本主義経済の下では、所得水準は「豊かさ」の、成長力は「活力」の指標となっている。それを前提にすると、経済の発展は、「活力」と引き換えに「豊かさ」を手に入れる「成熟化」のプロセスだということもできる。
戦後の日本経済も、まさにこの成熟化のプロセスをたどってきている。図表1は、所得水準と成長率を切り口として、1960年から2004年までの各年の状況をプロットすることで、日本経済の足跡をたどってみたものである。図の横軸にはそれぞれの年の過去4年間の平均成長率、縦軸には2004年価格で実質化した一人当たり実質GDPをとっている。
図表1.日本経済の「成熟化」の軌跡 |
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この図からは、日本経済は、低所得ながら手厚い産業政策に守られて急成長を実現した高度成長期から、石油危機を経て成長ペースを落とした安定成長期、一時的に成長ペースを加速したバブル期とその反動として訪れた長期不況期、いわゆる「失われた10年」といった流れで、「活力」を低下させながら「豊かさ」を獲得してきたことが読み取れる。長期不況を脱した今後の日本経済の成長率は、当面は2%弱、その後は労働力人口の減少ペースの加速によって徐々に低下していくことが想定されるが、その見通しは、これまでの成熟化の軌跡の延長線上の、「成熟期」のポジションに、きれいに納まるものと言えるだろう。
この状況は日本に特有なものではない。図表2は、図表1と同じフレームに、04年時点の世界の主要な国・地域の状況をプロットしたものである(ただし、一人当たりGDPはドル表示になっている)。為替レート次第で若干ポジションは違ってくるが、既に相当な「豊かさ」を手に入れている米国と欧州(EU旧加盟15カ国)は、日本と同様、図の左上方に位置している。それに対して、経済発展の途上にある国々は図の中ほどに散らばり、発展の初期段階にあるエマージング諸国が右下方に位置している。経済の発展、成熟化に伴う「豊かさ」と「活力」のトレードオフの関係は、複数の国・地域の比較対照においても鮮明に現れている。
図表2.主要国・地域の経済の発展段階 |
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- 出所:英EIU(Economist Intelligence Unit)のデータより作成(中国のデータは、2005年12月、中国国家統計局発表の改訂値により修正ずみ)
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相互補完の構図と人口大国への期待
「豊かさ」と「活力」の引き換えは、それぞれの国・地域の発展プロセスにおいてだけでなく、発展段階を異にする複数の地域間でも見られる現象である。先進諸国の成熟化が進むにつれて、商品輸出や事業投資、技術供与によって先進国が途上国の「豊かさ」の獲得を支援する一方で、途上国の低廉な労働力や活発な消費市場を活用することで、彼らの「活力」を取り込むパターンが定着してきた。先進国と途上国の間で、それぞれが求める「豊かさ」と「活力」とを交換し、相互に補完しあう構図である。
その相互補完関係の枠組みの強化と、その枠組みの中で有利なポジションを占めることに関しては、先進国も途上国も、多大な努力を続けてきている。枠組みの強化では、貿易と対外投資の促進を目的として、GATT(多角的貿易交渉)からWTO(世界貿易機関)へと受け継がれてきた多国間の交渉が進められている。個別に有利なポジションを得ようとする動きとしては、近年活発化してきた各国のFTA戦略が典型だ。西欧の最も豊かな国々の経済共同体であったEECがEC、EUへと枠組みを変えつつ、南欧や中東欧の発展の遅れた国々をメンバーとして囲い込んでいっているのも、「豊かさ」と「活力」の相互補完関係を意識した動きと言える。また、米国の場合には、貧しい移民を受け入れ続けることで日本や欧州を上回る「活力」を維持している。
こうした構図の下で、ますます注目を集めているのは、言うまでもなく、近年急速に台頭してきた中国とインドの両人口大国である。その「活力」と人口規模は、図表2においても圧倒的な存在感を示している。90年代には、両国は世界の生産拠点として注目された。低賃金の労働力を求めて、先進国の企業がこぞって工場を開設した中国は、衣料品や家電製品などの一大生産国となった。また、英語を公用語とするインドには、コンピューターソフトや情報システムの開発拠点が数多く設けられた。
そして、その結果として両国の経済発展が加速すると、今度は両国の消費市場の将来性が注目を集めるようになってきた。それぞれ10億を超える人口規模を考えると、要求される「豊かさ」も提供し得る「活力」も、これまで発展のプロセスに入ってきていた国々とは桁違いだ。国内市場の成長鈍化に悩む先進諸国の企業は、こぞってこの両国での事業展開を進めている。
制約となる資源、環境
中国、インドの経済発展の本格化は、その人口規模の巨大さゆえに、世界経済全体にとっての深刻な制約要因を浮かび上がらせてもいる。地球規模での資源と環境の問題である。その両面で大きなカギとなるエネルギー消費で見ると、現時点では所得水準の低さもあって、中国とインドの人口一人当たりの消費量は先進諸国の数十分の1のレベルにすぎない。しかし、経済が発展し人々が豊かになっていけば、エネルギー消費は確実に増加する。巨大な人口を擁する両国の経済発展が、世界のエネルギー需給、さらにはその他の天然資源の需給関係に与えるインパクトは加速度的に大きなものとなっていく。温暖化ガスの排出など環境に対するインパクトも同様だ。
その影響は世界経済全体に及ぶことになる。両人口大国の台頭を一因として進んできた04年からの原油価格の高騰は、その第一幕ということになるだろう。また、限られた資源の確保をめぐって、国家間の緊張が一段と高まることも考えられる。既に、国外の資源の確保を意図した中国やインドの外交戦略は、先進諸国にとって安全保障上、黙過できない問題となっている。
中国やインドが円滑に「豊かさ」を獲得していくには、資源や環境の問題をクリアしていくことが不可欠となる。具体的には、新エネルギーの開発や、省資源技術、環境技術の開発が主となるが、それを取り入れるための生産様式、生活様式の改善も必要になるだろう。これらは当然、先進諸国との「豊かさ」と「活力」の交換関係においても、大きな焦点となる。
ただし、資源と環境に関する制約は、単に先進諸国から技術を移転するだけで解消される問題ではない。省資源や環境保全においては、先進諸国の方も長期的なサステナビリティを確信できる状況ではなく、生産活動におけるエネルギー効率の向上や温暖化ガスの排出量削減など、いまだ改善の途上にある。今後は、そうした動きに、両人口大国をはじめとする途上国を巻き込んで、協調して問題の解消を図っていく流れが欠かせない。京都議定書におけるCDM(クリーン開発メカニズム)の制度も、それを実現していく枠組みの一つと位置付けられる。
資源と環境の制約は、先進諸国の「豊かさ」と途上国の「活力」のいずれをも損ないかねない、世界全体にとっての難題であることは間違いない。しかし企業にとってみれば、それは巨大なビジネスチャンスにつながる明確なフロンティアという意味合いも持っている。この領域では、生産活動におけるエネルギー効率が高く、省エネルギーや環境関連技術でも有力な分野を多く持つ日本の企業が果たす役割は、相当に大きなものとなるだろう。それは、国内市場の成長力を期待できない日本の企業にとっては、見逃すことのできない貴重な「活力」の源泉でもある。そこでの企業活動の展開や競合の帰趨は、これからの日本経済と世界経済を見ていくうえでも、きわめて重要なポイントとなりそうだ。
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