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ダイヤモンド・ホームセンター 2008年2-3月号掲載
為替レートをいかに考えるか

円安とドル安の進行

 「円安・ドル安」というと、いささか奇異に感じられるかもしれないが、世界各国の通貨の関係を総合的に考えると、それこそが2006年以降の為替市場のトレンドを最も的確に示す表現と言える。新聞やテレビでもよく取り上げられる円・ドルのレートの動きを見ていると、この時期の為替市場の動きは、07年7月までは円安、サブプライムローン問題の深刻化で世界中の金融市場が混乱した8月以降は反転して円高が進んだという理解になる(図表1)。しかし、ユーロをはじめとする他の通貨の動きもあわせて見てみると、この時期には、世界の主要通貨の多くが、基軸通貨であるドルに対して一貫して上昇してきており、円だけが下落基調にあったことに気付く(図表2)。要するに、この期間の為替市場においては、ドル安が大きな基調であり、07年7月までの間は、そのドルに対してさえ下落する円はきわめて特異な位置付けにあったのである。

図表1.円・ドルレートの推移 図表2.対米ドルでみた主要通貨の動向
  • 月中平均値
  • 2006年1月を100とした指数で表示

 為替レートのこうした動きは、日本と米国の経済状況を反映したものと言える。まず、円以外の通貨に対するほぼ全面的なドル安は、米国の経常赤字の累増が背景となっている。米国は、03年半ばからの回復局面で、欧州諸国や日本に先駆けて成長ペースを加速させたが、その結果として輸入が急増し、経常赤字が膨張した。年間の赤字額は02年の4,596億ドルから06年には8,115億ドルに拡大している。米国の輸入の拡大は、出遅れていた欧州や日本の景気回復の大きな支えとなったが、赤字額が膨らむにつれて、ドル売りの圧力が増し、05年末あたりから全面的なドル安が進行したのである。その影響もあって、07年に入ると米国の経常赤字は減少に転じている。
 また、円がドル以上に下落したのは、日本だけが超低金利の状態を抜け出していなかったことの影響が大きい。01年からの世界的な不況局面では、米・欧・日の各中央銀行は、それぞれに大幅な金融緩和策を採った。それ以前からすでに極端な低金利の状態にあった日本では、01年3月に量的緩和策の導入とともにゼロ金利を復活させた。その後、景気が回復してきたのを受けて、米国は04年半ばから、欧州でも05年末以降、着実に政策金利を引き上げてきた。しかし日本は、量的緩和とゼロ金利は解除したものの、デフレの脱却が完全ではないことから08年初の時点でも政策金利は0.5%という低水準に据え置かれ、依然として超低金利の状態にある。それに連動する預金金利もきわめて低い水準が続き、それに不満な預金者が、保有している円を売って外貨預金や外国債券、外貨建て投信などで運用する例が急増した。さらには、各種のファンドが低金利の円建てで資金を調達して他通貨に換えて運用する「円キャリー取引」も拡大した。これらはいずれも円の売却をともなうもので、他通貨に対して円を下落させる圧力となっていた。


円安の功罪

 近年の円安は、日本経済と日本の企業に、功罪両面の大きなインパクトを与え、さまざまな変化をもたらした。まずプラスの効果としては、景気回復への寄与が挙げられる。2003年以降、日本経済は輸出主導の回復基調に入ってきていたが、05年からの円安によって他の国の製品に対して価格競争力が増したことで、自動車や電気機械、建設機械などを中心に、輸出とそれによる企業収益の拡大が一段と加速した。加えて、外貨建てで入ってくる海外での事業からの収益の円換算額が膨らんだことで、製造業の大企業を中心に、企業収益が大きく改善した。また、日本国内での旅費やサービス価格が割安になったことで、中国や台湾、韓国、オーストラリアなどからの旅行者が増え、一部ではあるがホテルや外食、旅行関連などのサービス産業にも円安のメリットが生じた。そして、業績が向上した企業は設備投資や雇用の拡大に動き、景気回復の裾野は次第に広がってきた。
 ただ、国際的に割安になったのは商品やサービスだけではない。海外の企業や投資家にとっては、日本の不動産や日本企業の株式、さらには企業自体の価格も低下している。06年に外資系のファンドが日本の不動産や企業の買収を目指す動きが急速に加速したのも、円安の影響が大きい。こうした動きは、07年後半にはサブプライムローン問題にともなう世界中の金融市場の混乱を受けて沈静化しているが、混乱が収束に向かえば、外資による不動産や企業の買収は再び活発化することになるだろう。外資による買収は、不動産のより有効な活用や、企業経営の効率性、戦略性の向上の契機となるという意味で、基本的にはプラスの効果が大きいものと考えられるが、対象となる企業の経営者や社員にとっては、職を追われたり、手慣れた仕事の進め方を変えさせられたりといった、好ましくない状況になるケースも少なくない。
 また、日本人や日本企業(正確には円で収入を得ている主体)にとっては、外国製の商品やサービスの価格上昇というインパクトもある。日本では、中国製の商品の流入がデフレの一因となってきたが、中国における賃金の上昇に加えて、人民元に対しても円安が進んできたことで、中国からのデフレ圧力は緩和してきつつある。これは、自社開発商品を中国をはじめとする低賃金の国で生産して日本に持ち込む仕組みを築いて競争力の源泉としてきた企業にとっては、戦略の見直しを迫られる動きでもある。
 円安の進行は、国際的な視点では日本人の賃金が切り下げられているということでもある。中国などの低賃金国との格差が縮小する一方で、欧米の先進国には置いていかれる形になっている。中国、インドの両人口大国の経済発展を背景に原油や穀物などの一次産品価格の上昇傾向が続くと予想されるこれからの時代には、円安は日本と日本人の経済力を大きく損なわせることになる。円安は、たとえて言えば覚醒剤のようなもので、個々の時点では経済を活性化させる働きがあるものの、長期にわたって続けていると決定的に体力を損なってしまう。


円の行方

 こう考えてくると、今後の展開としては、景気を極端に冷え込ませない程度の緩やかなペースで時間をかけて円高が進んでいくような展開が望ましい。足元の動きを見ると、2007年8月以降は、サブプライムローン問題にともなう金融市場の混乱が円キャリー取引を縮小させた結果、円高に転じているが、近年の円安の最大の要因と見られている超低金利の状態は依然として続いており、円高の基調が定着するとは限らない。サブプライムの問題が収束に向かえば、日銀は再び政策金利の段階的な引き上げを開始するものと考えられるが、その際の円高圧力がどの程度のものになるかは予想し難い。
 為替に限らず現代の市場では、取引に参加する多くのプレーヤーがそれぞれに売ったり買ったりを繰り返すことで、売買の対象となる商品や資産の総額をはるかに超えた巨額の取引が成立している。そこでの価格形成は、個々の市場参加者の相場観を集約する形で行われている。近年のドル安、円安の背景が米国の経常赤字や日本の低金利であったと言っても、それらが直接的にドルや円の需給関係を動かしたわけではない。そうした事象が市場参加者の相場観を変化させることで、ドル安や円安の圧力が生じ、それが市場におけるレートを動かしているのである。そして、為替市場の参加者の相場観を変化させるファクターは、各国の経常収支や金利だけでなく、景気や物価、各種の政策、政治や社会の安定性など、きわめて多岐に及ぶうえ、それらのうちどれが重視されるかは状況によって変化していく。その変化を踏まえて為替レートの動きを予想することはきわめて難しい。
 ただ、敢えて簡潔に整理してみると、近時の為替レートの決定要因は、その通貨が流通している経済の「活力」と「健全性」という二つの尺度にまとめることができるだろう。経済活動が活発で成長力の高い国の通貨には上昇圧力が働く。しかし、たとえ「活力」のある経済であっても、財政赤字や経常赤字の拡大、過度のインフレ、あるいは金融システムの動揺といった経済の「健全性」を損なうような動きがあれば、その国の通貨には下落圧力が働いてくる。サブプライムローンの問題が顕在化してからのドル安がその典型だ。
 そうした尺度で現在の日本経済を評価してみると、「活力」の面では、中国をはじめとする新興国や、移民の流入が活力源となっている米国を上回ることは難しいものの、明確にデフレの状況を抜け出せれば、円には上昇圧力が働いてくるだろう。また「健全性」の面では、財政赤字の累積が問題であるのに加えて、いわゆる「ねじれ国会」の状況もあって政権の求心力が弱いことも、円が上昇しにくい一因となっている。逆に言えば、政権が安定し財政再建の方向性が明らかになってくれば、円の上昇圧力が生じてくるということだ。
 こうした考え方では、理論値の算出はできないが、振れが大きく見通しの難しい為替レートの動きを読み解くためには、一つの指針となるだろう。円の行方は日本経済の行方を示す指標でもある。円の動きに目を凝らすことで得られる知見は、決して小さなものではないはずだ。


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