モラトリアムとしての「バブルの時代」
2005年4月、普通預金のペイオフ凍結が解除された。そのこと自体のインパクトはごく限られたものであるが、日本経済が、「バブルの時代」をひとまず抜け出したという、象徴的な意味合いの大きい事象であることは間違いない。
このペイオフ凍結解除を以って「バブルの時代」の終焉と見なすと、バブルの生成以来20年近くにおよぶこの時代は、日本経済全体が、時代の趨勢である「成熟化」への対応を先送りしたモラトリアムの時期であったと捉えることができる。
戦後の日本経済の歴史を、人のライフステージに例えると、安い円レートと政策的な産業保護・育成の下で急成長を遂げた戦後の復興期から高度成長期にかけては「幼年期」、ニクソン・ショックと石油危機を経て、経済成長が鈍化し円高が進んだ安定成長期は、筋肉質な国際競争力を身に付けた「少年期」と位置付けられる。
そして80年代の半ば、日本経済はいよいよ成熟し、大人となるべき時期を迎えつつあった。85年のプラザ合意を契機とする急激な円高で、輸出主導の経済成長に「待った」が掛かり、国内の需要においても、経済発展の結果として人々の生活水準が向上したことで、多くの商品・サービスの市場が次第に飽和していった。その延長線上には、経済の成熟化、すなわち、経済全体の成長を前提にできない厳しい時代が待っているはずであった。
その流れを押し戻したのが、低金利と資産価格の高騰をテコに、消費や不動産関連の投資が膨張した、いわゆる「バブル経済」の到来であった。円高不況を抜けてから景気が後退に転じるまでの約4年間、日本経済は一時的に成長力を取り戻したのである。
そして、バブル崩壊後の不況期にも、経済の成熟化が問題視されることはなかった。バブル崩壊直後は、景気が後退しても単なる循環的な現象だとの見方が一般的で、財政拡大による従来型の景気刺激策が繰り返された。さらに、最も危機的な状況に陥った90年代の終盤にも、危機の最大の原因は金融機関の不良債権の問題だと考えられていた。そのため、この間の企業の対応は、急場をしのぐための賃金カットや余剰人員整理といった、いわゆるリストラ策に終始した。政策面でもペイオフ凍結をはじめとする緊急避難的な動きが中心で、経済の成熟化への対応はほとんど意識されなかった。
成熟化にともなう三つの問題
日本経済が成熟化の問題を再び意識せざるを得なくなったのは、21世紀に入り、「失われた10年」とまで呼ばれた長期不況を抜け出してからのことであった。2000年と03年、景気は回復に向かったが、いずれも今ひとつ盛り上がりを欠いた。この時期に明らかになったのは、金融機関の不良債権の問題が沈静化しても、それだけでは全般的な景気回復は望めないということと、リストラ頼りの企業収益改善だけでは、経済全体としては縮小均衡に向かってしまうという厳しい現実であった。バブル期以降、一時的に見えにくくなっていた日本経済の成熟化の問題が、再び鮮明になってきたのである。
経済の成熟化にともなう問題としては、第一に、市場の飽和が挙げられる。人々の所得の向上にともなって衣食住全般の基礎的な需要が満たされ、企業が新たな需要、新たな市場を開拓することが次第に困難になってきている。
第二には、国際的なポジションの変化がある。欧米の先進諸国という先行モデルが存在している時期には、そこから産業や技術、社会制度を導入することで、急速な経済成長が可能であった。また、先進諸国との所得格差を生かして、輸出を伸ばしていくことも比較的容易であった。しかし、先進諸国との格差が縮小してくると、そうしたキャッチアップ型の急成長は難しくなる。さらに、80年代頃からは、逆に後発の国々に追われる立場ともなってきている。冷戦の終結にともなう経済のグローバル化の進展、巨大な人口を有する中国の台頭といった外部環境の変化も、それを加速させる要因となっている。
そして第三に、少子化の進行とその結果としての人口の減少がある。少子化が進んだ背景には、さまざまな要素が絡み合っているが、お金で買える楽しみが多様化、高度化したことも、子育てに時間とエネルギーを費やすことを躊躇したり、出産の時期を遅らせる傾向の一因となった可能性が高い。
これらはいずれも、経済成長を鈍化させる要因ではあるが、経済的な豊かさを実現したことの裏返しでもあり、経済の成熟化自体は、全面的に悪いことだとは言えない。環境問題や都市の混雑の問題を考えれば、経済成長の鈍化はむしろ望ましいとさえ言える。とはいえ、現在の経済の仕組みの下では、経済成長の鈍化は、企業の運営や、就業機会と所得の円滑な分配を難しくする。また、限られた市場を多くの企業が奪い合う競争が激しさを増せば、その渦中で働くことの負担は一段と重くなる。これが安易に見過ごせない問題であることは言うまでもない。
成熟化に対応する三つの方策
経済の成熟化への対応には、大きく分けて三つの方向性がある。第一には、国外の活力を取り込むことで、成熟化の潮流自体を食い止めようという方向性が考えられる。そこでは、他の先進諸国のケースが参考になる。移民の国として成立した米国では、経済が成長し、人々の生活水準が向上しても、世界各地からの次々に貧しい移民が流入してくることで消費市場の飽和は回避され、彼らの旺盛な需要が経済を活性化させてきた。また、長年成熟化にともなう活力の低下に悩んできた欧州の先進諸国は、04年春、EUの新規加盟国として、従来の加盟国に比べてはるかに貧しい国々を迎え入れた。これは、既に成熟し停滞している国々が、貧しい国々の経済発展を支援しつつ、彼らの活力を取り込もうという戦略にほかならない。
ただ、国外の活力を取り込むことには、副作用も小さくない。米国は都市のスラム化や治安の悪化も含む深刻な貧困問題に悩まされてきたし、EUでも独・仏などの中核国は、新規加盟国からのデフレ圧力や、労働時間の弾力化などの構造調整圧力にさらされている。
日本にとっての現実的な選択肢は、周辺諸国の発展を支援しながら彼らの活力を取り込む戦略だろう。具体的には、貿易や投資、さらには人材の交流も加えたアジア諸国との経済関係の強化だ。ただし、それには農業や基礎的な製造業など、一部産業の空洞化は覚悟しておく必要がある。
成熟化に対応する第二の方向性は、成熟化の潮流を前提とし、そのなかで成長力の回復を目指すという考え方である。個々人の消費需要が飽和した日本でも、満たされていない潜在的なニーズは残されている。たとえば、豊かになった日本人の暮らしでも、住環境の貧しさだけは、依然として大きな不満として残っている。住宅そのものについては、個人がお金をかけて質を高めていくことが可能だが、周辺の公共施設や公共サービスなどトータルな住環境の整備は、個人の力で改善できるものではない。この種の需要を顕在化させるためには、住民の利害を調整し、コンセンサスを形成していく仕組みが必要になる。本当の意味での地方自治の仕組みである。
近年では、事業主体として初期投資を行いサービスを提供するのは民間の企業やNPOとし、政府や自治体はその利用者としての国民、地域住民を代表して、事業主体にサービス提供を委託する事業モデルが登場してきた。税金で費用をまかなうことで事業のリスクを抑え、民間のノウハウと資金を活用しようというわけだ。そうした新しい形式の事業展開は、現時点では試行段階にとどまっているが、成功事例が出始めれば、地域全体でのバリアフリー化や景観の改善、公共サービスの拡充など、想定される事業領域は幅広い。
第三には、成熟化と成長鈍化を受け入れ、社会制度や経済システムを、それに適応した形に転換していこうという方向性も考えられる。低成長は必ずしも停滞を意味しない。これからの時代は、経済の規模は拡大しなくても、技術の進歩や消費者の変質など、質的な変化は従来よりも遥かに目まぐるしくなるはずだ。ただ、成長が鈍化すると、体力のない企業は事業を維持できなくなる。そうした企業は、当座は救済できても、低成長時代を生き抜くことは難しい。これからの時代にふさわしいのは、企業そのものを保護する政策ではなく、個人の企業からの自立を支援する仕組みや、職を失った際にも生活を維持できるようにするための社会保障制度を整えることだ。
これら三つの方向性は、どれか一つを選ぶ必要はない。実際、既に政策面をはじめ、ビジネスの領域や個人の価値観の領域でも、三つの方向性に沿った対応が動きはじめている。それらは一つ一つを見ると、パワーもスピードも今ひとつの感は否めないが、成熟化の進行と、それへの対応としてのさまざまな動きは、これからの時代の日本経済の基調をなすことになるだろう。
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