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読売ADリポートojo 2006年5月号掲載
連載「経済を読み解く」第67回
「豊かさ」の方向性−浮かび上がる「消費者」ではないアプローチ−

 前回(第66回「日本経済『成熟期』の迎え方」)は、成熟期を迎えた日本経済の見方について述べた。成熟期の経済では、人々の基礎的なニーズが充足したこともあって、成長力は低下するが、人々のニーズに対応し、不満を解消する形での経済や社会の進歩がストップするわけではない。今回は、成熟期の経済の進歩が、どのような方向に向かうのかについて、考えてみたい。


残されたフロンティア

 現代の日本では、衣・食・住の基礎的なニーズはほぼ満たされ、飢えたり凍えたりする人はほとんどいなくなった。また、冷蔵庫や洗濯機、クーラーなどの機器や多彩なサービスの普及によって、私たちの生活は便利に、また快適なものになってきた。
 より便利に、より快適にという欲求は、どこまでいっても尽きることはないだろう。しかし、その水準が高度になればなるほど、人々の欲求としての切実さは薄まっていく。また、商品やサービスを通じて便利さ、快適さを提供する企業の側でも、開発が容易な分野から商品化を進めていくため、消費者に購入してもらえるような価格水準で、新たな便利さ、快適さを商品化できる分野は次第に限られてきて、開発ペースの鈍化が避けられなくなってくる。
 その結果が、経済の成長力の低下となって現れているわけだが、便利さや快適さに対する欲求が満たされてくると、今度は次第に、人生を積極的に楽しもうとか、有意義なものにしようという欲求が浮かび上がってくる。近年では、「楽しさ」につながる商品やサービス、情報の市場は、衣・食・住も含む幅広い分野で、大きな成長領域を形成してきている。
 また、便利さ、快適さを追求するベクトルも消滅したわけではない。切実なニーズが満たされないままに残されている領域もある。残されたニーズとしては、「健康」や「安全」、「住環境」、「ゆとり」といったキーワードが容易に思い浮かぶだろう。これらはいずれも、消費市場に残った大きなフロンティアである。


パブリック・ニーズの開拓

 ただ、これらの領域では、技術面やコスト面の制約が大きく、消費者を満足させられるような商品やサービスの提供が急速に進展するという状況にはなっていない。これまで未開拓なまま残されてきたのも、そのためであり、それを突破するには、なんらかのブレイクスルーが必要になる。
 そこでは、技術革新への期待はもちろんだが、社会的、あるいは制度的なブレイクスルーがカギを握るケースも多いものと考えられる。というのも、これらの領域では、地域やコミュニティーを形成する多くの人々が共有する、「パブリック・ニーズ」と呼べるような性格のニーズが大きなウエートを占めているからだ。具体的には、地域全体でのバリアフリー化やセキュリティーシステムの構築、利便性の高い公共交通機関の導入や医療、介護サービスの高度化など、その範囲はきわめて幅広い。
 この種のニーズは、個人がそれぞれの資金で企業から商品やサービスを購入することで充足させることはコスト的に難しい。しかし、ニーズを共有する人々が協調して資金を出し合う仕組みが作れれば、大幅にコスト・パフォーマンスを向上させることが可能になる。地方自治の仕組みが未成熟な日本では、そうした試みは限定的であったが、近年では、政府や自治体がサービスを利用する地域住民を代表して、企業やNPOにサービス提供を委託する事業モデルも導入されはじめている。
 その延長線上で、コミュニティーの人々を組織化する枠組みが定着していけば、現時点では潜在的なものにとどまっているパブリック・ニーズを掘り起こし、企業には新たなビジネスチャンスを、人々には新しい形の豊かさをもたらすブレイクスルーになることも期待される。


「消費者」の限界を超えて

 パブリック・ニーズの顕在化に向けては、私たちには、単なる「消費者」としてではなく、コミュニティーを構成する「市民」としてかかわっていくことが求められる。
 私たちは誰しも、「消費者」であると同時に、「生産者」や「市民」といった、いくつもの立場を持っているが、従来は、豊かさの獲得においては、お金を使う「消費者」としてのアプローチが中心であった。しかし、経済の成熟化にともなって、「消費者」として得られる豊かさが限界に近づくなかで、「消費者」以外の立場から新しい豊かさを求めていく方向性が浮かび上がってきている。それは、時代の潮流を映した必然的な動きといえるだろう。
 そこでは、パブリック・ニーズの充足に向けた「市民」としてのアプローチに加えて、「生産者」として仕事や働き方に豊かさを求めるアプローチも考えられる。私たちが仕事に求める豊かさは、賃金水準以外にも、存分に力を発揮できる、社会に貢献できる、時間が自由になる、負担が軽い、といった具合に、きわめて多様である。
 終身雇用が前提でなくなった近年では、若い世代を中心に、それぞれの価値観に基づいて、自ら起業したり、専門性を身につけてプロの世界を目指したりといった、多様な働き方への志向が生まれてきている。企業の側でも、人口減少下での人材不足の可能性をにらんで、柔軟な雇用形態を提案する動きが目立ってきており、私たち一人一人が「生産者」としての豊かさの獲得に向かい得る環境が次第に整いつつある。
 「市民」や「生産者」としての豊かさの追求は、これからの日本経済に新たなダイナミズムをもたらすだろう。それは同時に、経済の面で成熟した日本が、より包括的な意味で成熟し、真に豊かな「大人の時代」を迎えるための動きでもある。未来への希望の萌芽といえるだろう。


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