1.はじめに
2004年、日本経済は久々の景気回復感に包まれた。しかし、私たち一人一人の将来に対する不安感は依然として解消されていない。これは、経済不振が10年以上も続いたために容易に自信を回復できないということもあるが、経済構造の変容によって、人生を設計するうえでの標準的なモデルが無力化しつつあることが大きく影響している。
90年代の長期不況では多くの企業の経営が行き詰り、その打開策としての人員整理が相次いだ。さらには平時における競争力強化のための人員削減までが「リストラ」という言葉を与えられ、企業の存続を図るうえで避けられないこととして容認されるようになった。良い大学を出て良い勤め先に就職すれば一生安泰という時代は終わりを告げた。
今の日本では、企業倒産やリストラで職を失った人だけでなく、大多数の人が、それまで信じていた自分自身や家族の将来に不安を感じている。これから社会に出て行こうという若者たちにしても、将来に対する明確なビジョンを持てないまま、貴重な時間をいたずらに空費する者が少なくない。しかし、その一方で、「良い大学・良い勤め先」式の旧来型の人生モデルにとらわれない新しい生き方を模索する若者も増えている。本稿では、そうした時代の波に立ち向かおうとしている若者たちの未来像を描き出してみたい。
2.旧来型人生モデルの崩壊
(1).高度成長期に成立した旧来型モデル
はじめに確認しておきたいのは、現代の若者たちのために求められているのは、「良い大学・良い勤め先」式の旧来型人生モデルを復活させてやることではないということだ。旧来型モデルが有効だった時代背景は既に失われ、むしろ弊害の方が大きくなっていた。旧来型モデルは失われるべくして失われたのである。
旧来型モデルの原型ははるか昔に遡る。隋・唐時代の中国で成立した「科挙」の制度などがその典型だが、基準となる試験制度を設定し、優秀な人材を家柄や財産と関係なく選抜して、重要な仕事と名誉、そして経済的な報酬を与える枠組みだ。日本でも、極端に家柄が重視された近世においてさえ、儒学や蘭学を修めることで出世するルートが存在していた。明治期に入ると、高等教育の制度が整備され、高等学校や大学を出て政府や企業の幹部になることが、少数のエリートの人生モデルとして確立した。
そのモデルが、誰もが目指し得る標準モデルに転化したのは、戦後の高度成長期のことである。その時代に、急速な経済成長を実現するには、農業から製造業へ、農村から都市への労働力の移動を秩序立てて進める必要があった。そのために機能したのが「学歴」という名の人材格付け制度であった。大学入試を突破することで、農村から都市へ移り住み、企業にホワイトカラー=幹部候補生として就職する資格を手にでき、一旦就職してしまえば終身雇用制と年功賃金の下で安泰な人生設計を描くことが可能になるシステムだ。
企業セクターが成長するのにあわせて大学も次々と開設され、農村から企業へと人材をいざなうパイプも拡充されていった(図1)。一定の能力基準を満たした均質な人材を大量に育成できるこの枠組みは、欧米の先進国へのキャッチアップという明確で直線的な路線を突き進むうえでは、きわめて効果的に機能した。
その結果、日本は製造業を中核とする経済構造へ移行し、急速な経済成長を実現した。その成果は、個人のレベルでは、所得水準の大幅な向上や住宅や耐久消費財の充実といった経済的な豊かさに加えて、エリートの人生モデルを踏襲できるという形で付与された。「大学卒・ホワイトカラー」というかつてのエリートのモデルは、高度成長期を経て、標準的な人生モデルとなっていったのである。
図1.大学進学率とホワイトカラー比率の推移 |
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(2).単線階層型モデルの弊害
「大学卒・ホワイトカラー」の人生モデルは、それが一般化、標準化するにつれて、少しずつ、さらなる変質を遂げていった。序列の成立である。人材の格付けはより細分化され、同じモデルの中でも優劣が生まれた。より良い人生設計を描くには、より良い大学、より良い勤め先が求められるようになった。そうして成立したのが、「良い大学・良い勤め先」という、一つの物差しで序列を付けられる単線階層型の人生モデルであった。
階層型モデルの下で勝者と敗者の区分が生じことで、落ちこぼれや不登校など「敗者の問題」が深刻化していった。校内暴力の問題も、それだけが原因ではないとしても、やはり「敗者の問題」の延長線上にあるものと考えられる。
また、大学受験を最大の関門とするシステムは、受験が厳しくなるにつれて大学生の勉強に対するインセンティブを低下させてきたという批判や、大学までの教育課程が、社会に出てからの仕事に必要な技能や知識の習得に結び付いていないという指摘もある。人材を使う企業の側にしても、大学の人材養成機関としての機能に対する期待を薄れさせ、仕事に必要な技能や知識については、実際の仕事を通じて身に付けさせるOJT(On the Job Training)が基本となった。
その結果、企業にとっての大学は、人材格付けの意味合いが中心になっていったが、時代の変化とともに、その格付けのための尺度の有効性も疑問視されるようになってきた。欧米先進国という先行モデルが存在し、それへのキャッチアップが課題であった高度成長期には、与えられた課題を粘り強くこなしていく能力に長けた受験秀才型の人材が有用であった。しかし、高度成長期を経て、欧米諸国へのキャッチアップを果たし、自らの手で新たな市場を創造していくことが求められるようになると、受験秀才型の人材とは異なる資質を持った人材が必要とされるようになってきた。
これらの弊害が表面化してもなお旧来型モデルが日本の標準的な人生モデルとして維持されてきたのは、大学入試というまがりなりにも客観的な指標に基づく序列付けによって、敗者にもその社会的地位に甘んじることを納得させ得ることで、社会の秩序と安定の維持に貢献していたためだと考えられる。
(3).旧来型モデルの崩壊と若者たちの対応
旧来型モデルが崩れた直接の契機は、90年代の長期不況の過程で多くの企業が終身雇用制を維持できなくなり、リストラが日常化したことにある。リストラの脅威は大企業の管理職層にまで及んだ。旧来型モデルの根幹である「良い企業に入れば一生安泰」という前提が崩れたのである。旧来型モデルは、敗者の問題を深刻化させる一方で勝者は不在という不毛な競争を残し、人生モデルとしての機能を失ってしまった。
こうした事態は、これから社会に出ようという若者たちの行動にも多大な影響を与えた。「一生安泰」というメリットが疑わしくなった以上、いわゆる「良い企業」に就職しようというインセンティブが薄れ、別の進路を目指す者が増えるのは、至極当たり前の反応と言えるだろう。
若者たちの進路選択は、さまざまな方向へ広がりを見せた。ITのブームを追い風に自分たちで企業を立ち上げる者。直接的な社会貢献を志してNPOやNGOでの仕事を選ぶ者。ダブルスクール(大学に通いながら別の教育機関にも通うこと)で仕事に役立つ技能や知識を習得しようとする者。企業に勤めながら、あるいは企業を辞めて大学院で学ぶ者。音楽や演劇など自分の好きなことを仕事にしようとする者。選択を先送りしてアルバイトで生計を立てる者。
これらの動きのなかには、標準的な人生モデルが失われて将来についての明確な指針がないだけに、迷走している部分は確かにある。彼らがダブルスクールで学んでいる内容は、必ずしも実際の仕事で役に立つわけではないし、企業から評価されるわけでもない。一生安泰ではなくなったといっても、アルバイトを続けているよりは、いわゆる「正社員」になる方が、現時点では所得水準や社会保障などの面で有利であることに変りはない。
問題は、彼らに続く世代にも及んでいる。旧来型モデルの崩壊が明確になるにつれて、子供たちが「良い大学」を目指して勉強につぎ込むエネルギーも減退していく可能性が高い。近年指摘されている小中学生から大学生までに及ぶ学力低下の問題も、学校で教える内容や教え方が悪くなったとか時代にそぐわなくなったというよりも、人生モデルが失われたことで、すでに子供たちの勉強に対する意欲が衰えはじめているためではないだろうか。
今、日本の社会が若者や子供たちのために何かをしてやろうとすると、二つの方向性が考えられる。一つは、旧来型の人生モデルの再建。そのためには、企業の終身雇用制を建て直すことが前提になる。もう一つは、新しい人生モデルを設定してやること。そのいずれを選ぶかは、これからの日本の経済、社会がどうなっていくかに掛かってくる。
3.未来からの視点
(1).浮かび上がる三つの選択肢
これからの日本の経済環境を考えると、企業に終身雇用制の復活を求めるのは、相当難しそうだ。図2は、2050年までの日本の総人口と、人口全体に占める65歳以上の高齢者の比率の予測を示したものだ。人口は07年から減少に転じ、高齢者比率は2030年代には30%を超える見通しだ。
図2.総人口と高齢者比率の予測 |
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人口が減少するなかでは、既存の商品・サービスの市場が縮小することは避けられない。そうした環境下で企業が生き残っていくには、新しい市場を創出し続けていくことが必要になる。そのためには、技術進歩や消費者の変化に合わせて、企業自身が常に変化していける体制、企業活動のフレキシビリティーが、きわめて重要な要素となる。
そうなると雇用の流動化は避けられない。多くの企業が、人材を正社員として長期的に抱え込んで自社独自の教育を施すよりも、事業の遂行に必要な能力を持っている即戦力の人材をときに応じて集めたり手放したりしながら事業を進めていくことになる。正社員中心の雇用体制を企業に強いることは、企業の存続自体を危うくしかねない。企業の立場からすれば、旧来型モデルへの回帰はきわめて難しいということだ。
また、仮に旧来型モデルを復活させたとしても、高齢者比率が上昇することで、それを維持していくことが難しくなるという側面もある。旧来型モデルでは、定年後の生活には年金や医療保険によるサポートが前提とされてきた。しかし、高齢者比率の上昇で、現役世代と引退後の余生を送る人々の数的なバランスが崩れることで、それらの仕組みを維持することが難しくなってきている。
これからの時代、大多数の人が、従来以上に長く現役で働き続けることを避けられなくなる。とはいえ、前述のとおり、企業に定年延長や定年後の再雇用の受け皿を用意することを期待できる状況ではない。これから仕事を選択する世代では、そもそも定年のある働き方ではなく、高齢になっても続けられる仕事を選択する方が、本人にとっても社会にとっても望ましい。
そのための第一の選択肢は自営業だ。自ら生産手段を保有して事業を営む自営業は、高齢になっても現役を続けられる職業の典型である。旧態依然とした農業や小売業では難しいが、新しい技術や斬新なアイデアをベースに、新たに企業を起こしていくことは有力な選択肢となる。第二に、専門性の高い職種も有望だ。過去の実績から、弁護士や医師などの専門職や技術職は、高齢になっても現役を続ける人の割合が高いことが知られている。
そして第三には、低賃金で生産活動の補助的な業務を担う「ユーティリティ・ワーカー」の道がある。現在のフリーターの一部もこれにあたるが、高齢者の雇用のかなりの部分が、そうした低賃金労働で占められてきた。これからの時代にも、この種の労働力へのニーズがなくなることはない。仕事以外の趣味や社会貢献活動などに人生の意味や楽しみを見出すことができれば、これも立派な選択肢の一つとなり得る。
これら三つの選択肢は、旧来型モデルの崩壊に際して若者たちが見せた動きとオーバーラップする。ベンチャーの起業、ダブルスクール、そしてフリーターでさえも、これからの日本の経済環境に適した働き方に向かうものと言える。そう考えてくると、そもそも弊害の大きくなった旧来型モデルの再建を目指すよりも、すでに新しい時代に向けて動きはじめている若者たちをサポートし、彼らの動きを新時代の人生モデルにつないでいく方が望ましいという結論が見えてくるだろう。
(2).専門職・技術職を目指すコースが新しいモデルに
それでは、旧来型の「良い大学・良い勤め先」モデルに代わる新しい人生モデルは、どのようなものになるだろうか。まず言えることは、専門的な職業教育の枠組みが、重要な役割を果たすだろうということだ。
加速的に進む技術進歩にともなって、モノづくりやサービスの現場において、さらにはオフィスワークにおいても、生産活動の内容が高度化し、働く人々には従来よりもはるかに高度な技能や専門性が要求されるようになってきている。ところが、終身雇用制が前提でなくなると、企業が多くの半人前の人材を雇用したうえで研修を受けさせることは難しい。したがって、個人の判断と費用負担で専門的な職業教育課程を履修して、専門職・技術職を目指す若者が増えることは、企業にとっても望ましい展開と言える。
対象となる領域は、IT関連のさまざまな技能、製造現場での諸技術、デザイン、金融工学、情報検索、介護サービス、マーケティング等々無数にある。従来はフリーターの守備範囲と考えられてきた領域でも、販売業務や家事代行など、要求される技術水準が高度化し、準専門職、準技術職といった位置付けになる部分が広がってきている。
これらの技能を修得する場としては、専門大学院構想を進める大学のほか、各種の専門学校、あるいは、そこにビジネスチャンスを見出した新しい参入者が台頭する可能性もある。いずれにしてもそれらの機関には、単なる人材格付けではなく、本質的な人材養成の機能が求められることになるだろう。
「職業教育機関から専門職・技術職」というコースは、これからの時代の標準的人生モデルの根幹を成すものと想定される。そのモデルは、一つの物差しで序列を付けられる単線階層型の旧来型モデルとは異なり、学ぶ内容も学ぶ場も多様な、複線型のモデルになることが予想される。近年の若者たちの動向と、それをビジネスチャンスと見て職業教育の事業化を図りはじめた企業の動きから考えると、このモデルがスタンダードになるのはそう遠い話ではないかもしれない。
(3).フリーターの処遇の改善が課題に
もちろん、すべての若者が専門職・技術職のコースを踏襲するわけではない。それは、旧来型モデルの時代にもほぼ半数が大学に進学していなかったのと同じことだ。専門職コースに進まない者の多くは、現在のフリーターも含め、ユーティリティ・ワーカーの道を選ぶことになるだろう。
社会制度が現状のままであれば、低賃金のユーティリティ・ワーカーは社会的弱者の地位に甘んじざるを得ない。とはいえ、ここまで見てきたとおり、企業が正社員の雇用を拡大することは期待できない。これから求められるのは、彼らを旧来型モデルの正社員にしてやることではなく、社会保障や税制を企業の正社員であることを前提としないものに組み替えることで、ユーティリティ・ワーカーの経済的な処遇を向上させる施策だ。そうした施策は、専門職・技術職の人々や自営業者にも恩恵を及ぼすことになる。彼らもまたユーティリティー・ワーカーと同様、特定の企業に依存しない生き方が前提になるからだ。
また、社会的な地位の面でも、フリーターやユーティリティ・ワーカーをいたずらに貶めず、社会において一定の役割を果たす存在として正当に位置付けることが求められる。その意味では、フリーターに対して否定的な論調が目立つ近時の風潮は、きわめて残念なことと言える。旧来型モデルにおける常識にとらわれてフリーターの生き方を否定したことが、その他の選択肢を持たなかった若者たちを「ニート」と呼ばれる不幸な境遇に追い込んだ可能性もあるのではないだろうか。
標準的な人生モデルが失われた現在、たとえ弊害が大きくても旧来型モデルの再建を目指そうという考え方が出てくるのも無理はない。しかし日本経済の実態を考えると、それはベストの選択ではないし、実現可能性もきわめて低い。
若者たちは、すでに新しいモデルともなり得る生き方を模索しはじめている。旧来型モデルに固執することは、若者たちの新しい生き方探しにブレーキを掛けることにもなりかねない。今、私たちに求められているのは、新しい時代の社会や経済を的確に見通したうえで、私たちとは違う道を往く若者たちを支え、見守ってやることではないだろうか。
4.おわりに−未来へ向かう若者たち−
現代の日本の若者たちの状況は、チャップリンの名作「モダンタイムス」の主人公のイメージと重なる。映画の冒頭では、製造業が急成長を遂げつつあった1930年代の米国の大工場での非人間的な単純作業の様子がコミカルに描かれる。主人公のチャーリーは工場の流れ作業に適応できず、精神を病んでしまう。ラストでは、彼は恋人とともにどこへ続くともしれない一筋の道を歩きはじめる。時代への適応を拒む彼の決意の清々しさと同時に、新しい時代に対する不安感をも感じさせるシーンだ。
今日の日本にも、時代への適応に苦しむ若者たちが少なくないが、彼らもまた、将来を見通せない不安の只中で社会に出て、歩きはじめようとしている。ただ、チャーリーが拒んだのが押し寄せてくる新時代の潮流であったのに対して、日本の若者たちを苦しめているのは、古い時代の残像だ。残像はいずれ消える。その先の未来には、間違いなく彼らの時代が広がっている。
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