不安と不況のスパイラル
日本経済は、再建の糸口の見えないまま漂っている。決定的な危機に陥らないで済んでいるだけでも喜ぶべきなのかもしれないが、もっと前向きな展開を期待したいところではある。
もちろん何の手も打たずに経済が再起動されるはずはなく、政府も企業も、さらには個々人のレベルでも、少しでも状況を改善しようと努力を続けている。ただ、企業の努力は過剰な借金、設備、労働力の整理といった、いわゆる「リストラ」が中心だし、個人の方も、無駄遣いをせずにお金を貯めるのがせいぜいだ。これらはいずれも、マクロの視点から見れば、むしろ経済をますます萎縮させてしまう動きである。
他方、民間の経済活動が萎縮する不況期に、公共事業の拡大などで需要を維持する役割を求められる政府も、巨額の財政赤字を抱えて支出を抑えようという方向にあり、前向きな動きを先導することは期待できそうにない。
こうして消去法で考えていくと、誰もがそれぞれの立場で状況を改善する努力を続けていても、前向きな展開はどこからも出てこないということになってしまう。
現在の日本経済が、こうした八方ふさがりのような状況に陥ってしまった背景には、人々の間の将来に対する不透明感、不安感がある。長引く不況で醸成された不安感が、個人の消費活動を萎縮させ、それが企業の投資活動を後ろ向きにさせる結果、不況がさらに深刻化するという悪循環に陥っているのである。いわば、不安と不況のスパイラルだ(図表1参照)。
図表1.不安と不況のスパイラル |
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サクセスモデルの崩壊
かつて経済が成長を続け、終身雇用が前提だった時代には、一度就職してしまえば一安心で、引退後の生活も含めて将来を不安視する必要はなかった。その背景には、戦前の日本ではエリートだけに許されていた「大学を出て企業や官庁に勤める」という生き方が、高度成長期を経て、多くの普通の人々にも可能になったことがある(図表2、3参照)。「大卒・勤め人」というパターン化されたサクセスモデルが確立していたのである。
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図表2.大学進学率の推移 |
図表3.ホワイトカラー比率の推移 |
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- 出所:労働力調査(総務省)
- 全就業者中の専門的・技術的職業、管理的職業、事務の従事者の比率
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ところが、単一のサクセスモデルを共有する人が増えていくにしたがって、同じ大卒ホワイトカラーの中でも序列が生まれてきた。サクセスモデルは、単に「大卒・勤め人」というものから「より良い大学、より良い企業」という階層的なモデルに変質し、勝者と敗者の区分と競争が生じたことで、落ちこぼれや不登校など「敗者の問題」が深刻化していった。
さらに、90年代の長期不況が終身雇用制を崩壊させ、大企業の管理職層までがリストラの対象になってきたことで、「良い大学、良い企業」の勝ちパターンに乗っていた人々までが、将来への不安を抱くことになった。「良い大学、良い企業」のモデルは、敗者を生む一方で勝者は不在という不毛な競争となり、もはやサクセスモデルではなくなってしまった。
サクセスモデルの崩壊が明らかになるにつれて、今後は大学自体も、その社会的なポジションを低下させる可能性が高い。子供たちが「良い大学」を目指して勉強につぎ込むエネルギーも減退するだろう。このところ指摘されている小中学生から大学生におよぶ学力低下の問題も、学校で教える内容や教え方が悪くなったというより、サクセスモデルが失われたことで、すでに子供たちの勉強に対する意欲が衰えはじめているためではないだろうか。もしそうであれば、新たなサクセスモデルを提示しない限り、子供たちの学力低下はさらに進み、日本の経済、社会の未来に大きな影を落とすことになる。
新しいサクセスモデルは「プロへの道程」
日本の社会における将来への不安感の膨張とサクセスモデルの崩壊は、極めて密接に関係している。このことは裏返すと、今の時代に適合した新しいサクセスモデルを構築できれば、人々の不安感を軽減させ、八方ふさがりの日本経済の前途に風穴を開けることができるということだ。
では、新しいサクセスモデルとは、どのようなものになるのだろうか。考える糸口は、企業とそこで働く人との関係の変化にある。終身雇用制は崩れ、企業はビジネスの実行に必要な能力を持っている人を時に応じて集めたり手放したりしながら事業を遂行していく形にシフトしていく。そうなると、成功へのカギは、どんな大学を出るかでもどんな企業に入るかでもなく、どんな能力を身に着けるかにかかってくる。それも、仕事に直結する技術や知識だ。
従来は、仕事に必要な技術や知識は、社会に出てから実務を通して身に着けるのが普通だった。しかし、企業の経営環境が厳しくなった近年では、終身雇用制を維持できなくなるのと同時に、半人前の人材を雇ったうえで企業の負担で教育する余裕もなくなった。加えて、多くの職種で、要求される技術・知識が大幅に高度化し、実務を通して修得できる水準ではなくなった。その結果、人材の育成においても企業の役割は後退し、職業教育については、外部の教育機関と個々人の負担に依存する形になる。この職業教育、とくにプロフェッショナル養成の領域こそが「良い大学、良い企業」に代わる新しいサクセスモデルの根幹になると想定される。
その萌芽は、多くの学生が各種の資格取得を目指して大学以外の機関にも通う、いわゆる「ダブル・スクール」の流行や、専門職としての企業経営の技能を証明するMBA(経営学修士号)の取得を目指す学生や社会人が増えていることなどからもうかがえる。こうした動きは、不透明な将来に立ち向かおうとする人々の行動と、高度な知識・技能を持つ人材を求めながらもその育成を外部に任せたいという企業のニーズが組み合わさって生み出されたものだ。
求められる専門的職業教育の拡充
社会や経済の不安定さが増し続けている今、将来に備えて専門性や技能を身に着けたいという思いは、少なくとも潜在的には、むしろ強まっているはずだ。それは子供にも大人にも当てはまる。
問題は、そうした思いにこたえられる有意義な教習プログラムを設定できるかどうかだ。そこでは、サクセスモデルとしての地位を失った大学の、失地回復に向けた努力に期待が掛かる。加えて、各種の専門学校の役割が拡大する可能性も高いし、分野によっては受験産業のノウハウも活かされるかもしれない。まったく新しい参入者が台頭することも考えられる。むしろ、新しいサクセスモデルの構築には、既成の大学や学校の枠組みを超えた新しいエネルギーの注入がカギを握るだろう。
加えて、政策面でのバックアップも欠かせない。2004年に立ち上がるロースクール(法科大学院)をはじめとする専門大学院構想が打ち出されているが、これを一部のエリート養成にとどめず、対象となる職種・技能を多彩な領域に広げ、それぞれを公的な資格制度などで権威付けしていくことが求められる。IT関連のさまざまな技能、製造現場での諸技術、デザイン、金融工学、情報探索、マーケティング等々、対象になり得る分野は無数にある。
これらの教習プログラムや資格が権威を持ち、成功へのパスポートとなるには、それらが、人材を使う企業の側のニーズを反映したものであることが前提となる。同時に、職業教育のシステムが、一般の教養教育のシステムと効果的に結びつくこと、加えて、すでに社会に出て働いている人々の再教育の枠組みを整えていくことも必要だ。
新たなサクセスモデルへの期待
「良い大学、良い会社」の従来型サクセスモデルにおいては、大学へ行く目的は「○○大学卒」という学歴を手に入れることにあるというのが実態だろう。学歴は、人材市場においては一種のブランドである。人を選ぶ際には、本人のことを何も知らなくても、どんな大学を出ているかが大きな判断材料となる。ブランド品のバッグやアクセサリーを買うのと同じで、一定の安心感が得られるからだ。いわゆる有名大学を卒業したということは、その後の人生で大きな力になる。それほど有名でなくても、少しでも序列の高い大学、要するに入るのが難しい大学を出ている方が、就職や結婚の際に有利になる。
そういう認識があるから、頑張って受験勉強をするわけだし、たくさんのお金を掛けて子供を予備校に通わせたり教材を与えたりしてきたわけだが、学歴というブランドさえ確保してしまえば、それ以後は勉強はしないという風潮を生むことにもなった。
それに対して、新しいサクセスモデルは、プロとしての技能や専門性の獲得そのものがサクセスの前提条件として設定されているわけで、社会全体で見れば、人的資源の質的向上が期待できる。
また、新しいサクセスモデルは、多彩なゴールとプロセスを内包した複線型のモデルだ。その点でも、必然的に序列を生み「敗者」の問題を生じさせた、大学を基軸とした階層型のモデルとはまったく異質なものといえるだろう。
新しいサクセスモデルの確立は、人々の不安感を軽減し、消費活動を活発化させることにつながる。それにはかなりの時間を要すると考えられるが、その前の段階では、プロとしての技能や専門性を目指すための教育サービスに対する需要が発生する。この種の需要は、GDP統計では個人消費に含まれる形になっているが、将来に備えるための支出という性格を考えると、「個人能力投資」とでも呼べるだろう。この領域は、今後、実際的な技能を習得させる事業が本格的に展開されて、供給サイドの体制ができてくれば、大きな成長分野となる可能性を秘めている。
教育の領域に経済の視点で切り込むことには違和感を覚える向きもあるだろうが、日本経済の再建は、教育の問題を抜きには語れない。これからの日本経済に前向きな展開があるとすれば、教育の領域は、その最有力候補といえるだろう。
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