サブプライム問題は世界金融危機へエスカレート
2008年は、世界経済にとってはまさに激動の一年であった。夏場までは、前年からの米国のサブプライム問題の影響で減速はしていたものの堅調を保っていた。とくに7月には、米国の住宅公社への公的資金を用いた支援策が発表されたことで金融市場の正常化は間近だとの観測が広がり、世界経済にとって大きな不安材料であった原油価格が下落に転じるなど、ソフトランディングへの期待が膨らんだ。
しかし、9月に入って事態は一変した。転機となったのは9月15日、米国第4位の証券会社リーマン・ブラザーズの経営破綻であった。巨額の資産と負債を抱えた大手証券会社の破綻を受けて、世界各地の金融機関が、自己資本の毀損への対応と自らの資金繰り確保のために投資や融資を急速に絞り込む「信用収縮」の動きが加速した。その動きは、震源地である米国に加えて、米国の住宅ローン債権を含む証券化商品を大量に購入していた欧州の金融機関でも鮮明になり、その影響は、米・欧の金融機関を介した国外からの資金流入を受けて経済成長を続けてきたアジアや南米、ロシア、中東欧などの新興国にも及んでいる。米国、欧州に新興国も加えた世界各地で、設備投資や住宅投資、自動車をはじめとする耐久財消費といった借り入れに依存するタイプの需要が急速に後退し、サブプライム問題に端を発する金融セクターの混乱は、実体経済を巻き込んだ世界規模の金融危機へとエスカレートしてきたのである。
こうした状況下で最も懸念されるのは、「信用収縮」と「需要後退」、さらに住宅や株式等の「資産価格下落」の三つの現象が、それぞれがそれぞれの促進要因となってスパイラル的に落ち込んでいく、「トリプル・スパイラル」の事態である(下図)。既に米国の住宅という資産の価格の下落が信用収縮を生じさせ、それが需要後退につながってきている。そして次の段階では、需要後退が金融機関の収益悪化を通じて信用収縮を一段と深刻化させ、株価も含めたもう一段の資産価格下落にもつながり、それがまたさらなる需要後退を招くという三重の悪循環の構図が、世界規模で成立してしまう懸念が生じている。
トリプル・スパイラルの構図 |
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この構図は、1990年代後半、バブル崩壊後の日本が経験したものであるが、より激烈に作用したのは1930年代の米国の大恐慌である。1929年10月に発生した株価の大暴落は実体経済の崩壊を招き、新たな成長軌道に入るためには、第二次世界大戦という大規模な特需と世界的な生産能力の破壊を待つしかなかった。そして現在、トリプル・スパイラルへの懸念が浮上してきたことで、大恐慌の時代の最悪の記憶が甦り、米国経済の現状に関する報道や論評では、「大恐慌以来」という表現が目立ってきている。
危機からの脱出に向けて苦闘が見込まれる2009年の世界経済
トリプル・スパイラルの構図は、鮮明になってはいるものの、本格的に回りはじめてはいない。最悪の事態を避けられるかは、各国の政策対応がカギとなるだろう。大恐慌期の米国では、有効な政策対応は取られず、それが事態を深刻化させ、最悪期の1933年には、失業率は25%を超え、GDPはピークの7割を割り込むまでに落ち込んでしまった。その経験からは、需要後退に対しては財政支出の拡大や金融緩和で対処すべきとするケインズ流の経済政策理論が確立された。1990年代の日本のバブル崩壊後には、その処方箋が活用されたことで、大恐慌のような深刻な事態は回避された。しかし、信用収縮への対応が遅れたため、「失われた10年」という表現で象徴されるように、経済の低迷は長期化した。
今回の金融危機に際しては、そうした過去の経験を踏まえて、需要後退に対しては財政支出の拡大や金融緩和、信用収縮に対しては公的資金を用いた金融機関への資本注入を主力として、米国や欧州諸国をはじめ、世界各国で迅速な政策対応が打ち出されている。資産価格下落に対しても、米国の住宅ローン債権の価格下落に歯止めをかけるため、住宅ローン債権やそれを組み込んだ証券化商品を、公的資金を使って買い取る施策が検討されている。既に公表されている対策では不十分だとの見方もあるが、各国政府は、状況に応じて追加的な措置を打っていく姿勢を鮮明にしている。国ごとの政策だけでなく、多くの国が協調して危機に対応していく方針も確認されている。
また、今回の危機の元凶とも言うべき金融産業の活動に対しては、過度のリスクを負った投資や、証券化商品の行き過ぎた多様化・複雑化をはじめとして、総じて活動を制限する方向での制度改革が進むことになるだろう。そのための具体策については、11月15日に米・欧・日に中国やインド、ブラジル、ロシアなどの新興大国も含めた20カ国の首脳がワシントンに集まって開催された第1回のG20金融サミットで、国際的な議論が緒に就いた。それらを考え合わせると、危機的な状況を抜け出す道筋は次第に見えてきていると言えるだろう。各国政府と国際的な協調による政策対応が順次実行に移されていくことで、世界規模の金融危機は沈静化に向かうことが期待される。その意味では、現在の金融危機は、サブプライム問題の最終局面と位置付けることができる。しかし、信用収縮を受けた需要後退ははじまったばかりであり、2009年の世界経済は、危機からの脱出に向けて、トリプル・スパイラルの影響と政策対応の効果がせめぎ合う厳しい状況が続くことを覚悟しておく必要がある。
潮流の大転換と新たなダイナミズムの模索
今回の金融危機は、単にサブプライム問題の帰結というだけでなく、1980年代以降の世界で主流となった自由主義的な政策運営と、金融産業の活動に依存した経済発展の弊害が一気に噴出してきた現象という側面もある。その意味では、2000年以降に起きた、ITバブル崩壊やエンロン、ワールドコムの経営破綻といった一連の経済事件は、今回の危機の前哨であり、2009年からはじまる金融危機からの脱却プロセスは、1980年代以降の経済発展の在り方を根本から見直す大きな転換点となることが想定される。
既に、今回の危機への対応として、伝統的な財政金融政策や金融機関支援だけではなく、国際的な金融制度の再構築に絡む領域を中心に、企業活動をめぐるさまざまな分野で規制を強化していくことが検討されはじめている。また、欧米を中心に、公的資金を用いた金融機関への資本注入による「国有化」が進んだり、巨額の財政支出で景気を維持する政策が採られるなど、経済における政府のプレゼンスが急速に拡大してきている。これらは、1980・90年代の「自由」を標榜する「小さな政府」の路線から、1950・60年代の「計画・規制」を旨とする「大きな政府」の路線への回帰を想起させる展開と言える。
ただし、その展開は必ずしも単なる過去への回帰とは限らない。一つには、1950・60年代の「大きな政府」が国家の枠組みを基本とするものであったのに対して、これからの時代には、既に議論がはじまっている国際金融制度改革をはじめとして、国家の枠組みを超えて、さまざまな組み合わせによる複数の国々の連携や協調による動きが、従来よりもはるかに大きな力を持つようになることが予想できる。G20金融サミットやAPEC首脳会議の場でWTOドーハラウンドの交渉加速が強く打ち出されたのはその象徴と言えるだろう。世界共通の重要課題である気候変動問題や資源問題についても、足下では金融危機下で議論が停滞している感があるが、2009年には、国際協調を目指した議論が再び加速するものと考えられる。
また、経済水準が高く国内市場が成熟化している先進諸国を中心に、国家よりも小さな単位で、地方政府や自治体、あるいはボランタリーな住民組織が主役になった、分権的で地域住民のニーズに細かく対応した事業が増加、拡大していく可能性もある。それは、1950・60年代に主流だった中央政府による計画的な経済運営とは異質なものと言える。
いささか誇張してそれぞれの時代の経済発展のスタイルを総括すると、1950・60年代は国家を基軸とする集権的な「官」の主導、1980・90年代は「官」が退き、自由を基調として私益を原動力とする「私」の活力によるものと位置付けられるのに対して、次の時代には、制限は設けながらも「私」の活力を可能な限り生かし、国家や国際協調、地域といった大小さまざまなレベルでのコンセンサスに基づく「公」が支えるスタイルが想定できるだろう。
また、社会的な要請という観点から考えても、地球環境や資源の問題など国の枠を超えた取り組みが不可欠な重要課題が山積していることと、医療や教育、住環境整備など、社会として対応しない限り充足されない種類のニーズである「パブリック・ニーズ」の多くが未充足なまま残されていることを考えると、大小さまざまなレベルの「公」の存在抜きには、次の時代の経済発展は考え難い状況でもある。
2009年は、金融危機下で経済環境が一段と厳しいものとなるなかで、新たな経済のダイナミズムを模索する動きも強まっていくものと考えられる。現時点では「公」が支える経済発展の在り方はまだ明確にはなっていないが、その実相は、現下の金融危機から脱却する過程で次第に明らかになってくるだろう。
トピックス
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