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日経BP社webサイト“Realtime Retail" 連載
「消費とリテールの、過去、現在、未来を読み解く」 第5回 2005年8月11日アップ
「豊かさ」の代償−経済発展の光と影−

 前回は、消費者のパワーアップについて、リテールビジネスとの関係性の視点から考えてみた。今回はそれを受けて、より大きな視点から、消費者が何を手に入れ、それと引き換えに何を失ってきたのか、そして、その流れが今後どのように変わっていくのか考えてみたい。


社会的分業の発展と「豊かさ」の獲得

 現代における消費者の変質は、リテールビジネスとの関係性から見ると、前回述べたように、「購買力」「情報力」「機動力」そして「発信力」といった様々な力を獲得していくプロセスととらえることができた。そのプロセスは、消費者にとっては「豊かさ」の獲得、よりマクロの視点からは「経済の発展」、あるいは「生産力の向上」といった大きな潮流の一側面でもある。
 「経済」とは、突き詰めれば「社会的な分業の枠組み」のことである。みんなで仕事を分担することで生産効率を上げ、より多くの成果を分かち合う。そうした、人々が互いに支え合う分業の枠組みを広げ、深めていくことが、経済発展の本質である。
 分業の枠組みは、家族からコミュニティ、国、世界へと拡張されてきた。それと並行して、農業と工業とサービス業、あるいはモノを作る仕事とそれを売買する仕事、さらにはそれを管理する仕事といった具合に、仕事の専門化、分業の高度化が進行してきた。その過程では、知識としての科学技術の進歩を実際の生産活動に活用することも図られた。科学技術の進歩に見合った形に分業の枠組みを編成し直すことで、新しい科学技術を生産活動に取り込み、生産性を向上させると共に、より高度な商品、サービスを生み出してきたのである。
 現代を生きる私たちの生活の「豊かさ」は、こうした社会的分業の拡張・高度化の成果である。社会的分業の発展による生産性向上の成果は、その初期の段階では、人々が飢えたり凍えたりしないで暮らせるように、生産力を拡充する方向で現れた。その結果として、「貧困」の時代を抜け出すと、生産性の向上は、人々の自由時間を増やす方向や、商品やサービスの多様化によって消費者の選択の自由度を高めることにも振り向けられてきた。


家事労働の産業化の構図

 その一方で、生産性の向上が社会に問題を生じさせるケースもある。経済の歯車がうまく噛み合わないと、生産性の向上は労働力の余剰、つまりは失業を生み出すことにもなるからだ。そうした時期にも、生産活動をコントロールする企業は、生産性向上の手を休めない。むしろ経済の状況が悪い時期ほど、利益を確保するために、生産性を上げて労働コストを抑えようとする。
 皮肉なことではあるが、現代の経済では、むしろそれが普通の状態になっている。最悪の場合、企業のコスト抑制策がさらなる失業を生み、経済をますます悪化させるという悪循環に陥ることさえある。
 そうした事態を回避する上で大きな貢献を果たしたのが、「家事労働の産業化」の潮流だった。家事労働を社会的な分業の枠組みに組み込んでいくことで、雇用を維持、拡大させながら、失業の心配のない主婦たちの仕事を減らし、自由な時間を与えていったのである。
 経済全体の生産力が急速に向上した1950年代から60年代にかけての高度成長期には、洗濯機や掃除機などの家電製品や、多彩な加工食品、インスタント食品の利用によって、家事労働は飛躍的に楽になった。


耐久消費財の普及率の推移
  • 内閣府「消費動向調査」より作成


 また、スーパーマーケットの登場で日々の買い物の手間は大幅に軽減された。さらには、スーパーマーケットやコンビニの総菜を買ったり、ファミレスやファストフードを利用することで、日々の食事の用意の大部分を“アウトソース”することも可能になった。衣類のクリーニングや家の掃除など、家事を代行してくれるサービスも数多い。
 企業による営利活動だけではサービスの供給が十分ではないと考えられた医療や教育などの領域では、国や自治体を通じた分業体制が成立している。高齢化の時代に向けて、介護の仕事を社会的に分かち合う介護保険の仕組みも導入された。
 これらはいずれも、家事労働が社会的な分業の枠組みに組み込まれ、産業化されてきた潮流の断片である。これらによって、企業は新たな事業機会を手にし、雇用は維持、拡大されてきた。それと同時に主婦たちは家事労働から解放され、自由と「豊かさ」を享受するという、誰にとっても望ましい構図が形成されてきたのである。
 主婦たちは、拡大した自由な時間を様々な娯楽や趣味に注ぎ込んでいったが、その中には、料理や洋裁、手芸、家庭菜園など、従来は労働として行っていた活動も含まれていた。労働の一部が趣味化・娯楽化した形である。
 趣味化・娯楽化した生産活動は、単なる生産効率で計れば、当然、企業での高度な分業体制に基づく大量生産に比べて劣っている。それが増えるということは、生産活動全般で「機能的な効率化」が進行する中で、その一部において「享楽的な非効率化」が進むということでもある。
 その一方で、家事労働から解放された女性たちが、企業が提供する商品やサービスを購入するための現金収入を得る目的で、パートタイマーなどの形で家庭の外の仕事に就くケースも増えていった。これは裏返せば、それまで市場における生産活動の外にあった家事労働と、それに従事していた女性たちを社会的な分業の枠組みに組み込むことで、家事も含めた生産活動を効率化し、トータルでの「豊かさ」の向上を実現していったということである。


失われたもの

 しかし、それですべてが良い方向に向かっているのかというと、安易に「Yes」とは答えられない。私たち一人ひとりが、企業が提供する商品やサービスへの依存をあまりにも強め過ぎていることへの懸念があるためだ。
 現代の私たちの生活においては、衣・食・住・遊のあらゆる場面で、企業から購入した商品やサービスに頼っている。そのこと自体は経済の発展の必然的な帰結と言えるが、それに伴って失われてきたものもある。
 第一に、家事労働の産業化、社会化が進んだことで、家庭の存在意義が希薄化してきたことが挙げられる。コンビニやファストフードを皮切りに、人々の日常生活をサポートするサービスが充実したことによって、家庭の果たすべき役割は大幅に軽減された。その結果、家庭を築き、維持していくことの必然性は低下し、それが離婚の増加や非婚化、晩婚化の趨勢、さらにはそれらの結果としての少子化の一因となっている可能性がある。
 第二に、家庭が担ってきた機能を企業に託していく中で、家庭が手放した機能を企業の力でカバーしきれずに、機能の欠落が生じてしまう問題がある。例えば「食」に関しては、従来は家庭の主婦が担っていた「食事を通して家族の健康を維持する」機能が失われつつある。単に食事を用意するだけであれば、その機能はスーパーマーケットやコンビニの総菜を買ったり、外食を利用することで代用できる。しかし、それが栄養の過不足とかバランスの面で、本当に健康を維持できる食事になるのかどうかとなると疑問が残る。「食」の分野以外でも、子供の躾や教育などの領域では、現時点では、企業や公共機関が完全に代行することは難しいようだ。
 第三に、生活における文化的な多様性が失われてきた。生産活動における分業の枠組みが広域化するのに伴い、日本各地、世界各国の商品が手に入るようになった。また、新しい産業技術を導入して生産される多彩な商品が提供されている。それらを受け入れることで、人々の消費活動における選択のバリエーションは大幅に広がった。しかしその一方で、私たちの暮らしから「その土地ならでは」の郷土色や地域性、「その時期ならでは」の季節感といった伝統的な生活文化は失われていった。言ってみれば、「日常的な多様性」と引き換えに、「文化的な多様性」を喪失してきたということだ。
 これら三つの「喪失」は、経済の発展や産業構造の変化に伴う動きである。農業から工業へのシフトが進んだ高度成長期には、家電製品や加工食品など、主として工業製品の普及によって、「豊かさ」の獲得と三つの「喪失」が並行して急速に進行した。その過程では、敗戦を契機としてそれまでの家庭の在り方や生活文化に対する評価が失墜したことも大きく影響したものと考えられる。
 安定成長期に入った70年代以降は、「豊かさ」の獲得のペースは鈍ったものの、工業からサービス産業へのシフトを背景に、コンビニやファストフードの台頭に象徴される家事労働の産業化と、それにともなう「喪失」は一段と加速し、今日に至っている。


回復へ向けて

 経済の発展に伴う「喪失」は、21世紀に入っても続いている。その一方で、それを惜しむ声、嘆く声も高まってきている。それは、「喪失」の度合いが臨界レベルを超え、その影響が少子化の加速や家庭の食生活の乱れといった形で、多くの人の目に明らかになってきたためと考えられる。
 そうなると、今度は失われたものを回復するための動きに注目が移ってくるが、消費者が求めていることを実現し事業化しようと努めるのは、企業活動の基本である。消費者が、これまでに失ってきたものを惜しむようになれば、企業がそれを回復させることに事業機会を見出してくる蓋然性は高い。実際、そうした動きは既に顕在化してきている。
 前項で取り上げた分野に関して見ていくと、まず、食事を通した健康維持の面では、健康に配慮して開発された加工食品の多様化や、健康を意識したメニュー提案を行う食品宅配サービスの展開など、工業とサービス業のいずれもが、消費者の健康志向に応える動きを拡大してきている。
 子供の教育に関しては、企業が提供する教育プログラムが多様化したことに加えて、ファストフードやファミリーレストランなどのチェーン企業がアルバイトとして雇用した若者たちに施す研修が、人と接する上での基礎的なマナーを覚えさせる躾の役割を果たしているとの評価を得ている。
 生活文化に関しては、各地の農業生産者の団体や食品スーパーが「地産地消」というスローガンを掲げて、地域の食材とその料理法を合わせて紹介することで、消費者が地域の食文化を再発見する機会を提供し始めている。
 ただ、企業側のこうした動きは、欠落した機能や生活文化の回復にはつながるが、家庭の存在意義の回復には効かないばかりか、かえって逆効果でさえある。家庭の存在意義の回復には、消費者自らの変化が不可欠だが、その兆しはなかなか鮮明には見えてこない。機能的な面での家庭の存在意義については、家庭の機能強化に対して公的な補助が十分に与えられるような動きが生じない限り、事態が大きく変わるとは考えにくい。
 機能面での回復が望み薄だとすると、それ以外の存在意義を探ることになるが、突き詰めて考えると、企業や公共機関では代替できない家庭の存在意義とは、夫婦や親子の間の、経済的な動機に基づかない「絆」以外にはないのかもしれない。それにどのような意義を見出すのかは、人それぞれ価値観の問題である。
 ただ、その価値観が、社会全体の傾向としてどのように動くかは、人口動態や消費構造の変化を通じて、日本の社会、産業に相当な影響を及ぼすことになるだろう。それは、日本の未来像を描き出すうえで、もっとも読みにくいピースの一つである。


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連載「消費とリテールの、過去、現在、未来を読み解く」

第1回 パズルの大枠−「人口動態」と「豊かさ」の行方−(2005年4月15日)
第2回 リテール産業の時代性−時代がうながす主役交替−(2005年5月16日)
第3回 三つの競争力−脱・デフレを目指す事業戦略のために−(2005年6月16日)
第4回 パワーアップする消費者−第四の力、「発信力」が焦点に−(2005年7月15日)
第5回 「豊かさ」の代償−経済発展の光と影−(2005年8月11日)
第6回 これからの「仕事」−人生モデルの変容と新しい「豊かさ」−(2005年9月22日)
第7回 消費とリテールの国際比較−経済の成熟化とパブリック・ニーズ−(2005年10月6日)
最終回 消費とリテールの未来像−舞台は「心」の領域へ−(2005年10月20日)


関連レポート

■「豊かさ」の方向性
 (セールスノート 2007年7月号掲載)
■岩村暢子氏インタビュー「食卓が語る日本の現在」
 (The World Compass 2003年10月号掲載)
■「豊かさ」の代償−家事労働の社会的分業がもたらすもの−
 (読売ADリポートojo 2003年10月号掲載)
■「いちば」にもどる21世紀の経済−世紀末に生じた原点回帰のトレンド−
 (読売ADリポートojo 2001年1月号掲載)


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