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ダイヤモンド・ホームセンター 2005年4-5月号掲載
需要創造の第一歩はアイデンティティの再検討から

 「アイデンティティ・クライシス」という言葉がある。比喩的な使い方も含め、いろいろな分野で用いられているが、手元の辞書によると「(思春期における)自己認識の危機」と書かれている。要するに、子供から大人になる過程で、自分は何であるのか、という認識を一時的に見失ってしまう現象のことである。
 今、日本の企業の多くが、このアイデンティティ・クライシスを経験しているように思われる。企業のアイデンティティの根幹は、ビジネスモデル、すなわち誰に対して何を提供し、その対価をどのような形で得るのかであるが、多くの企業が時代の変化への対応に苦慮し、自らのあるべき姿を見失っているのである。ただし、企業にとって「自分探し」の混迷は、決して悪いことではない。むしろ、時代が変わっているにもかかわらず、従来の自分に疑念を抱かない方が、より危険な状況だと言える。
 時代の変化を認識したうえでアイデンティティを問い直すことは、新時代へ向けた一種の通過儀礼である。早くから新しい時代の到来を予見し、旧来の製造業だとか小売業だとかいった産業区分さえ飛び越えた、新しいアイデンティティを確立して成功した企業も少なくない。以下では、そうした事例を参考に、これからの時代に向けた次の一歩の踏み出し方を考えてみたい。


クライシスへの道程

 はじめに、日本の産業、企業がアイデンティティ・クライシスに陥った道程と、その間の時代環境の変化について確認しておこう。
 戦後日本の産業の歴史を振り返ってみると、安い円レートと政策的な保護・育成のもとで急成長を遂げた戦後の復興期から高度成長期にかけては「幼年期」、ニクソン・ショックと石油危機を経て、経済成長が鈍化し円高が進んだ安定成長期は、筋肉質な国際競争力を身に付けた「少年期」と位置付けられる。そして、大人になるまでのモラトリアム期間としてのバブル期を経て、1990年代初頭、バブルの崩壊によって突然、日本の産業は厳しい生存競争を強いられる大人の世界に放り出されたのである。
 とは言え、1990年代も終盤に入るまでは、産業や企業のアイデンティティが全般的に問題視されることはなかった。バブル崩壊直後は単なる循環的な景気後退だとの見方が普通であったし、もっとも危機的な状況であった1998年頃にも、不況の最大の原因は金融機関の不良債権の問題だと考えられていた。そのため、この間の企業の対応も、景気が回復するまでの緊急避難としての賃金カットや余剰人員整理といった、いわゆるリストラ策に終始したのである。
 産業や企業のアイデンティティが問い直される局面は、むしろ「失われた10年」とまで呼ばれた長期不況を抜け出したことで訪れた。2000年と2003年、景気は回復に向かったが、いずれも今ひとつ盛り上がりを欠いた。この段階で明確になったのは、金融機関の不良債権問題の沈静化と、リストラ頼りの企業収益改善だけでは、全般的な景気回復は望めないという厳しい現実であった。
 そこから導き出される結論は、それぞれの企業が業績を上げていくには、漫然と景気回復を待つのではなく、新しい需要、新しい市場を自ら開拓していくしかないということに尽きる。しかし、既に消費者の基礎的な需要は満たされており、新しい需要の開拓は容易なことではない。
 さらに、グローバル化の進展と中国の台頭、ITをはじめとする技術環境の変化や規制緩和の進展、人口増加の停滞から減少への反転といった多くの時代潮流が複雑に重なってきている。こうした状況下で、多くの産業、企業が自らのあるべき姿を問い直し、これからの時代に適応した新たなアイデンティティを模索すべき局面を迎えたのである。


産業の枠を超越する新しいアイデンティティ

 今、それぞれの企業が自らのアイデンティティを問い直すうえで参考になるのは、やはり、現在の時代潮流を前提にして、新たに台頭してきた企業、あるいは事業構造の変革に成功した企業だろう。近年の成功事例を見ていて気付くのは、従来の産業区分に拘泥せずに斬新なビジネスモデルを打ち出して成功した企業が目立つことだ。
 たとえば、メーカーでありながら開発や設計、デザインに特化して工場を持たない、いわゆる「ファブレス・メーカー」。1990年代初頭、米国シリコンバレーの電子機器・部品産業で生まれたビジネスモデルである。当初はその将来性について賛否が分かれたが、現在では一つのモデルとして定着し、日本においても、連結売上高1,000億円を超えるキーエンスをはじめ、ファブレスメーカーの台頭は著しい。
 それとは逆に、流通産業では、自ら製造機能を抱え込んだ企業の成長が目立っている。これは、ファストフードやファミリーレストランなどの外食産業では当初から見られたスタイルであるが、アオキインターナショナルなどの紳士服店や、GAPなどのカジュアル衣料でも、「SPA」と呼ばれる製造小売のビジネスモデルが台頭した。
 また、百貨店やGMS(総合スーパー)といった大型店を主力とする企業では、大規模商業施設の開発・運営の機能を強めてきている。産業区分で言えば、不動産業の領域だ。なかでも先行するイオングループでは、開発した商業施設の賃貸収入が、既に本業のGMS部門と並ぶ収益上の大きな柱となっている。直営のGMSは、商業施設の集客力アップのための道具として使われている観さえある。
 ファブレスやSPAが、個々の企業の動きを経営論や産業論の視点から把握するために事後的に生み出された概念であるのに対して、当初から自らのアイデンティティを定めて目指すべき方向性を社員や顧客、投資家と共有したうえで、経営資源を積み上げてきた企業もある。「カジュアル衣料のファストフード」を標榜して1991年に現在の社名に変更、直営店の全国展開と中国での生産体制構築を並行して進めていったファーストリテイリングがその代表格と言えるだろう。
 また今後の注目株という意味では、近年、直営店の全国展開を進めて急成長を遂げつつある斑尾高原農場のケースが興味深い。同社は、社名にも冠されている「農場」というアイデンティティの実現に向けて、創業時からの食品製造業に素材を作る農業、直営の小売業、レストランなどのサービス業を融合させ、他に例を見ない斬新なビジネスモデルを構築してきている。


的確な時代認識が大前提

 ここで取上げた事例は、いずれも技術進歩や消費者ニーズの変化の加速に対応して新しい需要を創造するためのモデルである。その多くが、製造業とか流通業、不動産業といった産業の枠を超越した動きであるということは、裏返せば、現在の時代潮流に対応していくうえでは、従来型の産業や業態の枠組みを、むしろ積極的に崩していく考え方が近道である可能性を示していると言えるだろう。
 小売業であれば、「仕入れて売るのが役目」だとか「売買差額が利益の源泉」だとかいった基本概念、あるいは「スーパーはセルフサービス」といった業態レベルの常識を疑ってみることが、新しいアイデンティティを見出す第一歩になるということだ。
 とは言え、新しいアイデンティティにシフトすることにはリスクもともなう。近年では、消費の高度化にともなって小売業にも高度な専門性が求められているのを受けて「食の大型専門店」というアイデンティティを確立した食品スーパーがある一方で、食品以外、とりわけ衣料品の品ぞろえを拡充して失敗したケースが目立った。その典型が、GMS化を推し進めて経営破綻に陥ったニコニコ堂のケースだろう。
 企業が自らのアイデンティティを問い直すことは、時代が大きく変化する際の必須条件であり、新たなアイデンティティへシフトすることは重要な選択肢である。しかし、それが時代の潮流に見合ったものでなければ、逆に傷を深める結果にしかならない。企業の「自分探し」では、世の中全体の動きを的確に見極めることが大前提となる。


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