「昔、銀行員という仕事があった。」10年もすると、そんなふうに言われているだろう。というと少しオーバーかもしれないが、今のような銀行員が10年後の金融ビジネスの世界で仕事をしていることはないだろう。金融ビジネスは大きく変りはじめている。今、金融ビジネスに携わるすべての人々が、自分自身と、取り組むべきビジネスのアイデンティティを一から構築し直す必要に迫られている。金融ビジネスとは何なのか。そこで、どんな仕事をすべきなのか。
この連載では、そうした重大問題を、少し肩の力を抜いて、映画に取り上げられた金融ビジネスを通して考えてみたい。それは、金融の業界人ではない普通の人の視線で、金融ビジネスを捉え直すことから得るものも多いと思えるからでもある。
「素晴らしき哉、人生!」−バンキング・ビジネスの原点−
一回目の今回は、古典的なバンキング・ビジネスが登場する映画を取り上げよう。1946年製作の「素晴らしき哉、人生!」は、この季節にぴったりの心暖まるクリスマス映画だ。
主人公は田舎町の銀行経営者ジョージ・ベイリー(ジェームズ・スチュワート)。第二次大戦が終わった直後の年のクリスマスイブ、彼は人生に絶望し、自らの命を絶とうとしている。しかし、その瞬間にも、彼の家族や、多くの友人たちが、彼が救われるように、祈りを捧げている。映画は、そうした祈りの声で幕を開ける。それを天上で聴いていた神々は、ジョージを救うため、一人の天使を地上に遣わすことにし、その天使にジョージの歩んできた人生を再現してみせる。
若い頃のジョージは、世界を股にかけて建築の仕事をするという夢を抱いていた。ところが突然、銀行を経営する父親が亡くなり、その跡を継がざるを得なくなる。銀行とはいっても店舗は一つきり、従業員も十人に満たない零細銀行だ(正確にいえば、S&L、貯蓄貸付組合だが、事業の本質は同じバンキングであることから、ここでは銀行と呼ぶ)。
彼は父の遺志を継いで、貧しい人でも、真面目に働きさえすれば家を持てるよう住宅ローン事業に力を尽くす。父親同様、金儲けは下手。慎ましい暮らし振りだが、町の人々に頼られ、たくさんの友人に愛される存在だ。
ところが、彼の銀行が、従業員の不注意から資金繰りの窮地に追い込まれてしまった。悪いことに、監督当局の検査の最中で、このまま経営が破綻してしまえば、ジョージは罪に問われ投獄されてしまう。小さいながらも銀行の経営者として、ひたむきに町の人々に尽くしてきた彼の人生の結末はそんなものなのか。絶望した彼は、今まさに冷たい川の流れに身を投じようとしている。
天上から遣わされた天使は、そんな彼に、彼が存在しなかった場合の町の様子をみせることで、彼の人生がいかに素晴らしいものだったかを納得させ、自殺を思い止まらせた。しかし、天使の仕事はそこまで。ジョージの銀行を救ったのは、そんな魔法の力ではなかった。町の人々は、ただ祈るだけでなく、なけなしのお金を銀行支援のために差し出した。人々の善意が、彼の銀行に再び命を吹き込んだのである。
イメージの悪い金融ビジネス
この映画は、主人公ジョージの人生の素晴らしさを謳い上げているが、それは、金融ビジネスの素晴らしさでもある。ジョージの事業は、人々が将来使うために貯えた資金を集め、今資金が必要な人に貸す、金融ビジネスの原点だ。
こういう事業が存在しなければ、普通の人々が自分の家を持つことなど思いもよらない。家具や家電製品を揃えたり、車を買うのにも、まずお金を貯めてからというのでは、本当にそれが必要なときには間に合わない。また、不慮の事故や病気で急にお金が必要になることもある。金融ビジネスは、そんな問題をクリアするための事業であり、多くの人々の役に立つものだ。
にもかかわらず、このビジネス、実にイメージが悪い。シェークスピアの頃から、金貸しといえば悪役だった(「ベニスの商人」のシャイロックなど)。映画にもなったディケンズの「クリスマス・キャロル」でも、主人公の金貸しスクルージは町の嫌われ者として描かれている。金貸し=儲け主義=悪い奴、というイメージだ。
確かに、金融ビジネスは、儲け主義ではなくても、「厳しい」一面を持っている。とくにバンキング・ビジネスでは、貸出にかかわるリスクをすべて負担し、資金の出し手に対しては、基本的にリスクのない預金商品を提供している。それだけに、借り手に対してはどうしても厳しくなる。預金者のことを考えると、信用力の劣る人においそれとは貸せない。回収も厳しくせざるを得ない。かつてのサラ金や現在の商工ローンは、そうした側面だけをいびつに肥大化させた存在だ。
そして、その「厳しい」側面が、シャイロックやスクルージにみられる、金融ビジネスの悪いイメージを生み出しているわけだ。
バンキング・ビジネスの「優しさ」
金融ビジネスを好意的に描いているという意味で、「素晴らしき哉、人生!」は、古今の物語や映画のなかでも例外的な存在だ。映画のなかのジョージは、借り手に対して実に優しい。ジョージは、資金の出し手と借り手の間に立って、借り手に極力便宜をはかろうとする。そのために彼は、しばしば自分の資産を犠牲してしまう。しかし、最後の最後で力を発揮したのは、彼と預金者、彼と借り手、そして、一般的には利害が対立しているはずの預金者と借り手の間の、コミュニティとしての一体感であった。
今はせっせとお金を貯めている預金者も、いつかはジョージの銀行からお金を借りて家を建てようと思っているし、老後の資金を貯めている預金者も、かつては住宅資金を借りたことのある人たちだ。彼らにとって、今の借り手は、明日の自分、昨日の自分なのである。だからこそ、借り手に優しいジョージを応援してしまう。
ジョージの銀行に限らず、バンキング・ビジネスは、コミュニティに属する人々が相互に助け合うシステムのベースとして、きわめて強い公共性を有している。映画に描かれた「優しさ」は、決して例外でも、ジョージ個人だけのものでもない。社会のインフラとしてのバンキング・ビジネスそのものが本来的に持つ優しさなのである。
とはいえ、人々の善意に支えられたシステムは、その存在意義を肌で感じ、自発的に支援しようという人々の集まりのなかでしか成立しない。ジョージの銀行の場合、地域のコミュニティに根ざした零細銀行だからこそ可能なのだ。同様の相互扶助的なシステムを、より大きな、たとえば一国単位で築こうと思うと、人々の善意だけに依存することは難しい。どうしても、預金保険の仕組みや、預金者と借り手を保護するためのさまざまな規制が必要になる。
その意味で、「素晴らしき哉、人生!」の世界は、バンキング・ビジネスにおける原始的ユートピアといえるだろう。
「タッカー」−起業家の夢の物語−
バンキング・ビジネスによる資金仲介では、預金保険の仕組みがあっても、吸収できるリスクには限界がある。ビジネスのための資金、とくに新しい企業を興そうという人に資金を供給することは難しい。
リスクの大きい起業資金を供給するためには、別の枠組みが用意されている。株式市場、バンキングとは異質な世界だ。起業家を主人公に据えて、起業のための金融が描かれた映画としては、「タッカー」が面白い。主人公は新しいビジネス、それもビッグ3の向こうを張って自動車メーカーを立ち上げようとするプレストン・トーマス・タッカー(ジェフ・ブリッジス)。実在の人物である。1988年の製作だが、舞台は「素晴らしき哉、人生!」と同じ第二次大戦直後のアメリカだ。
タッカーは、空力学を取り入れたボディや、安全ガラス、シート・ベルトの採用など、それまでの常識をくつがえす車で、既存の大自動車メーカーに挑戦しようとする。彼自身は技術者でも経営のプロでもないが、コンセプト・メーカーであり、仲間を引っ張っていくカリスマ的な存在。そして何よりも、自分の可能性を信じて突っ走る夢想家だ。彼の周りには、彼の夢に「感染」した技術者達が集まってくる。
タッカーは、雑誌やラジオを通じて、「明日の車を今日」というキャッチコピーで出資者、販売代理店を募る。計画は図に当たり、巨額の資金調達に成功する。その資金で、彼らは夢の車の生産に乗り出していく。
しかし、それを脅威に感じた既存の自動車メーカーは、息のかかった政治家ファーガソン(ロイド・ブリッジス…タッカーを演じたジェフ・ブリッジスの実父)を動かして妨害しようとする。その工作の結果、タッカーは、偽りの事業計画で資金を集めたとして、罪に問われてしまう。タッカーのいう夢の車など実在しない、まさに夢なのだ、と。タッカー達は、夢の車を計画通り50台作り上げ、裁判所の前に並べてみせる。
彼は裁判には勝つが、政治工作に敗れ、工場の操業は停止されてしまう。タッカーの夢の車は、はじめに作られた50台だけで生産を終えたのである。
市場からの起業資金調達
タッカーは言う。「50台でも5,000万台でも関係ない。大切なのはアイデアを生み出すこと、そして夢をみることだ」と。さらに彼は「大企業が力のない起業家の夢を潰してしまうようでは、この国の存立自体が危うくなる」と警告する。
確かに、アメリカという社会の強さは、起業の夢にチャレンジしやすい風土にあることは間違いない。そして、その土台となっているのが株式会社制度だ。普通の人でも、新設企業の株式に投資することで、起業家の夢に参画できる。それは、ただお金を貯めるのとは違う。相応のリスクを負い、事業が失敗した場合には損失も覚悟しなければならない。
そういう性格の資金を集めることで、起業家たちは、夢の実現に挑戦することができる。タッカーが、大きな夢に挑戦できたのも、株式市場を通じて、多くの人々の夢を一つにできたからだ。
とはいっても、投資家は夢想家ではない。リスクと将来性をクールに天秤にかけて、投資の可否を判断する。彼らを説得して資金を引き出すには、さまざまなテクニックと手続きが必要になる。タッカーも、そうした意味で苦労を味わうことになるわけだが、その展開が、このストーリーのベースとなっている。
バンキングと証券ビジネス
今回取り上げた、バンキングによる預金と融資、そして株式など証券の発行・引受を通じた投資、この二つが資金を融通するという意味での金融の二本柱だ。
このうちバンキングは装置産業、あるいは社会的なインフラとしての色彩が強い。ただし、ここでいう「装置」は、公的な制度や規制の枠組みなども含んでの表現だ。システムや制度の構築といった装置の部分を別にすれば、金融仲介の専門性を活かして人材が活躍する場は、実はあまりない。バンキングに絡むサービス提供は、むしろ、一般の消費者を相手にする販売やサービスの分野の専門性が活きるフィールドだ。それもかなりの部分がATMなどの装置に置き換えられようとしている。
映画「素晴らしき哉、人生!」では、ジョージ・ベイリーという一個人に対する人々の好意や信頼が、彼の銀行を救うという形で描かれている。しかし、そうした部分も、現実のバンキング・ビジネスにおいては、特定の個人ではなく、組織としての銀行が持つトータルなブランド・イメージが果たす役割と捉えられる。
一方、証券ビジネスの方には、バンキングとは対照的に、金融仲介の専門性を活かした仕事の場が豊富にある。映画「タッカー」でも、その方面の専門家が活躍している。タッカーの財務面での参謀役エイブ・ギャラッツ(マーティン・ランドゥ)もそうした一人だ。映画では渋い役回りだが、巨額の資金を調達し、企業を立ち上げるために欠かせない存在として描かれている。
ここで、日本に目を転じてみよう。常に先進国へのキャッチアップを目指してきた日本では、バンキングのシステムを産業資金の供給のためにもフル稼働させる道を選んだ。そのために、預金保険を超越した銀行間の相互保障システムとしての「護送船団方式」が構築されたわけだが、その反面、リスクマネーを集める枠組みとしての証券ビジネスは未成熟なままで放置されてきた。
護送船団が崩壊した今となっては、その担い手がどういう企業になるにしろ、金融の専門家としての仕事の場は、証券ビジネスの分野が中心になるだろう。それは、金融市場を舞台として、リスク・マネジメントのために、専門的な手法で「情報」を取り扱うような仕事だ。
次回は、金融市場や情報を扱う金融ビジネスを描いた映画を観ていくことにしよう。
(この連載で取り上げるのは、単に映画として観ても面白いものに限るつもりです。多くはビデオも出ていますので、ご覧になっていない作品があれば、是非一度ご覧になることをおすすめいたします。)
今回の映画
素晴らしき哉、人生!
製作:1946年 米国
監督:フランク・キャプラ
出演:ジェームズ・スチュワート、ドナ・リード、ライオネル・バリモア
クリスマス・キャロル
製作:1970年 英国
監督:ロナルド・ニーム
出演:アルバート・フィニー、アレック・ギネス
タッカー
製作:1988年 米国
監督:フランシス・フォード・コッポラ
出演:ジェフ・ブリッジス、ジョーン・アレン、マーティン・ランドゥ
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