「いちば」の情景
今回は、現代の金融の一方の中核である市場でのビジネスについて考えてみる。金融ビジネスで「市場」と書けば、当然「しじょう」と読まれるであろうが、ここでは、「いちば」の話からはじめてみたい。
経済とは、一言でいえば「人々が暮らしていくうえで、お互いに支えあう枠組み」のことだ。みんなで仕事を分担することで、仕事の効率を上げる。仕事の成果を持ち寄って、みんなで交換しあう。こうした「社会的な分業」の枠組みこそが経済の本質である。
その意味で、「いちば」とは経済の縮図である。人々は、それぞれに作ったもの、穫ったものを持っていちばにやってくる。それらをお互いに交換しあって、それぞれが生活に必要なものを揃えて帰っていく。「いちば」とは、お互いに支えあうことで成立する日々の暮らしの原点ということもできる。
名作「ローマの休日」では、オードリー・ヘップバーン演じるアン王女が、ローマのいちばを一人で歩くシーンがある。魚屋で活きたウナギに触ってみたり、サンダルを買ったりといった、一分ほどのごく短いシーンだ。
同じようなシーンが、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」にもある。この作品で彼が演じた犯罪者トム・リプレイは、富豪の友人を手に掛け、その財産を乗っ取ろうとする。緊迫した展開のなか、彼は束の間、町のいちばを散策する。殺人の罪を犯し、過去の日常にはもう戻れないトムが、いちばの、人々の温もりのなかを歩いていく。
どちらも、何でもないシーンだが、実に印象的なものになっている。可憐な王女と冷徹な殺人者。まったく対照的ではあるが、どちらも私たちの日常とはかけ離れた存在だ。そのことが、「いちば」という日常生活そのものの情景をバックにすることで、一段と際立ってくるわけだ。
市場と商品流通
「いちば」が人々の日常を支える経済そのものであるのに対し、同じ字を書いても「市場(しじょう)」となると、これはまったく別の情景になる。取引に参加するのは生産者でも消費者でもない専門の業者だ。彼らは相場の騰落を利用して利益を得る。
市場では、何を生み出しているわけでもない人が巨額の利益を手にしている。額に汗して働く人々からすれば、とうにも納得のいかない話だ。その手のビジネスは概して評判が悪い。
その意味では、「モノを右から左に動かすだけ」と揶揄される流通業も、悪いイメージで描かれることがある。しかし、市場でのビジネスのイメージはさらにネガティブだ。映画「エデンの東」では、そうした対照が鮮明に描かれている。
主人公キャル(ジェームズ・ディーン)の父親アダム(レイモンド・マッセイ)は、アメリカが第一次世界大戦に参戦する直前、都市に住む人々に、鉄道を使って新鮮な野菜を届ける事業に取り組んだ。それが成功すれば、野菜を作る農家は収入が安定し、都会の消費者は一年中新鮮な野菜が食べられるようになる。生産者と消費者、両方にとってハッピーな計画である。
これはまさに流通業のビジネスだ。結局のところその試みは失敗し、彼は財産の大半を失ってしまうのだが、この映画では、直接モノを作り出す仕事だけでなく、流通業のビジネスも、人々の役に立つ立派な仕事だということが描かれている。
一方、キャルは、優等生の兄を可愛がる父親に何とか認められようとして、事業に失敗した父親を助けるため、大豆の先物取引に手を出した。アメリカが第一次世界大戦に参戦すれば、大豆の値段が高くなることを見越しての取引である。これが図にあたって彼は大金を手にする。しかし、その成功は、父親に認められないばかりか、かえって責められてしまう。戦争で儲けたという不道徳さに加え、キャルの稼いだお金は、大豆の生産者である農民が手にするべき利益を横取りしたものだというわけだ。
市場でのビジネスは、「モノを右から左へ動かす」ことさえしない。ただ、その商品の値段が上がるか下がるかを予想するだけだ。当たれば大儲け、はずれれば大損。賭博のイメージとも重なって、映画ではまともなビジネスとしては描かれにくいのである。
市場の役割
改めて考えてみると、流通業のビジネスは、「いちば」が包括的に果たしてきた経済的な機能のうち、需要と供給を出会わせる役割を肩代わりする存在と捉えられる。他方、市場とは、「いちば」の機能のうち、商品に関する需給情報を集約し、そこから価格情報を生み出していく役割を担うものである。
経済の枠組みが大きくなり、生産者と消費者が一同に会する「いちば」のスタイルでは流通も情報も捌ききれなくなった。それに対応する形で、「いちば」が担ってきた機能が、一方では流通業、他方では市場へと分化していったのである。
市場が生み出す価格情報は生産者、消費者にフィードバックされ、需要、供給双方を変動させる。それが繰り返され、需要と供給は均衡に向かう。市場が生み出す情報は、人々の分業の在り方を最適な形へ導く働きを持っている。その意味で、市場は、現代の経済において不可欠な存在なのである。
その反面、市場というのは、賭博に近い形の儲けを狙う人々が集まる場所でもある。市場そのものの意義、重要性は認めても、そこで金儲けをしようという人々は尊敬できない、というのが一般の人々の素直な実感なのではないだろうか。
ただ、そうした感覚にも変化が生じている。近年では、市場で活躍する人々に憧れる若者も増えている。市場で勝ち続けるプレーヤーが手にする報酬は莫大なものだ。
その構図は、プロスポーツの世界と似ている。運と才能に恵まれたほんの一握りのプレーヤーが、勝ち続けてスーパースターの地位を得る。市場で勝ち続ける人々をマイケル・ジョーダンやマーク・マクガイアのような存在だと考えれば、彼らが莫大な報酬を得るのも、多くの若者が彼らに憧れ、市場のプレーヤーを目指すのも納得がいく。
カギは「情報」
「エデンの東」のキャルが大金を稼いだのは、アメリカの世界大戦参戦という情報を活用したからだ。その例を引くまでもなく、市場での成否のカギが「情報」にあることは明らかだ。コメディ映画「大逆転」は、市場における情報の重要性を描いているが、その描き方には、なかなか興味深いものがある。
商品取引会社の若きエグゼクティブ、ルイ(ダン・エイクロイド)とルンペンのビリー(エディ・マーフィ)は、ルイの雇い主である老兄弟の気まぐれで立場を逆転させられてしまう。すべてを失ったルイはもちろん、突然地位と大金を与えられたビリーも、事実を知って老兄弟に怒りを向ける。老兄弟は、政府が発表するオレンジの作況情報を事前に入手することで市場での大儲けを狙うが、復讐を誓ったルイとビリーは、彼らにウソの情報をつかませ、裏をかこうとする。
クライマックスの舞台は、フィラデルフィアの商品市場。「不作」というニセの情報をつかまされた老兄弟は大規模な買い攻勢を展開する。他の市場参加者も、彼らが何かの情報をつかんでいることを察知して、便乗の買いに出る。市場は買い一辺倒。相場は急騰する。売っているのはルイとビリーだけ。そこへ「平年並の作況」という政府発表が流れ、相場は一気に反落。目一杯買っていた老兄弟は破産、ルイとビリーは大金を手にする。大逆転だ。
ここで、観客は拍手喝采。ルイとビリーのやり方は、うさん臭いどころか、完全に違法であるが、そこはコメディ映画、目的のためには少々のインチキは許される。
とはいえ、現実の経済では、それでOKとはいかない。「大逆転」のクライマックスは、現実の市場が時折みせる乱高下のメカニズムを思い起こさせる。時として、大多数の市場参加者が、誤った思い込みや、他の参加者の行動を基準に取引を行うことがある。そうなると、市場は実際の需給関係から導かれるはずの適正値から大幅に乖離してしまう。映画のなかでオレンジ相場が急騰したシーンは、まさにそれだ。
前に述べたとおり、市場が生み出す価格情報は、人々の生産活動全体をコントロールするきわめて重要な役割を担っている。単に市場のなかでの損得だけにとどまる話ではない。市場の混乱は、きわめて多くの人々の生活に影響を及ぼしかねないのである。
そう考えると、誤った情報で市場を混乱させる、あるいは市場の機能を害する行為の罪がいかに重大かは、容易に理解できるだろう。
インサイダー取引の罪
そのあたりをシリアスに捉えて、現代の市場での犯罪を告発したのが、87年、市場の重要性がいよいよ大きくなった時期に作られた映画「ウォール街」だ。
主人公は証券会社に勤めるバド(チャーリー・シーン)。彼は、証券界の大物ゲッコー(マイケル・ダグラス)に接近しようとするが、ゲッコーが求めるのは企業のインサイダー情報の提供だった。法を犯しモラルに背く見返りは莫大な報酬。
この作品、ストーリー上の主人公はバドに間違いないが、強烈な印象を残すのは、むしろ敵役のゲッコーの方だ。株と土地の売買で巨額の資産を築いた彼は、金儲けのためには法を犯すことも、企業を潰して売り払うこともためらわない。悪いやつだが強い。魅力的でさえある(ゲッコーを演じたマイケル・ダグラスは、この演技でアカデミー主演男優賞を獲っている)。バドは、報酬の大きさもさることながら、ゲッコーのパワーに憧れて、悪の道に踏み出していったのである。
この映画では、ゲッコーやバド個人の罪だけではなく、国民全体としてのモラルの低下にも焦点があてられている。現代では多くの人々が、市場で利益を得るため、他人を出し抜くことばかり考えている。犯罪であるインサイダー取引についても「ばれなければいい」「誰もがやっていることだ」という風潮が蔓延している。「ウォール街」に登場する証券マンのセールスは一様に「耳寄りな情報があるのですが…」ではじまる。バドの旧友の弁護士でさえ「何か儲かる情報はないのかい?」と尋ねてくる。こんなことで大丈夫か、というのがこの映画のメッセージだ。
モラルの問題を別にしても、インサイダー取引は、市場の存続を脅かすものでもある。情報に恵まれた一部の人々だけに有利な状況が続けば、市場は信頼を失い、大多数の人々に見捨てられてしまう。そうなれば、市場は的確な価格情報を生み出せなくなってしまう。
アメリカでは、インサイダー取引は経済の根幹を揺るがす重大な犯罪とされ、厳しく取り締まられてきた。80年代末から90年代初頭にかけて、マイケル・ミルケンや、「ウォール街」のゲッコーのモデルとも目されるアイバン・ボウスキーなど、大物の摘発が相次いだ。しかし、90年代以降も、依然としてインサイダー取引は減少していないとの見方が強い。証券アナリストが新たな主役になっているとの指摘もある。
市場と金融ビジネス
市場では、一般の商品だけでなく、株式や債券、通貨といった金融商品も取引されてきた。現代ではむしろ、一般商品をはるかに上回る取引量となっている。
金融市場の発達は、「いちば」の機能が流通業や市場へ分化したのと同様、経済の進歩にともなうものである。ただ、金融ビジネスの視点で考えると、既存の経営資源の転用による収益機会の拡大につながっている。
そこでも、カギとなるのは「情報」だ。資金仲介のビジネスにおいては、経済や企業に関する情報が収集、加工され蓄積されていく。その情報は、自らが市場の取引に参加する場合にも、あるいは他の参加者をサポートする場合にも活用できる。
よく「金融ビジネスは情報産業だ」といわれるが、自らが生み出した情報をどうやって収益に結び付けるかは、現代の金融ビジネスのもっとも重要なポイントだ。金利や手数料の自由化にともなって、従来型の資金仲介ビジネスの収益性は圧迫されてきている。金融市場は、金融業者が情報を収益に結び付ける新たなフィールドと位置付けられる。
金融市場で生み出される価格情報は、マクロレベルでの需要、供給に影響を及ぼす。その影響力は、一般商品の市場よりもはるかに大きい。また、株式市場の場合には、それぞれの企業のパフォーマンスを審査する場ともなっている。金融市場の発達によって、金融と経済、企業の関係は、一段と重要性を増しているわけだ。
次回は、現代の金融ビジネスと企業活動の関係を描いた映画を観てみよう。
今回の映画
ローマの休日
製作:1953年 米国
監督:ウィリアム・ワイラー
出演:オードリー・ヘップバーン、グレゴリー・ペック
太陽がいっぱい
製作:1960年 フランス、イタリア
監督:ルネ・クレマン
出演:アラン・ドロン
エデンの東
製作:1954年 米国
監督:エリア・カザン
出演:ジェームズ・ディーン
大逆転
製作:1983年 米国
監督:ジョン・ランディス
出演:エディ・マーフィ、ダン・エイクロイド
ウォール街
製作:1987年 米国
監督:オリヴァー・ストーン
出演:マイケル・ダグラス、チャーリー・シーン
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