米国で幕を開けた「金融時代」
米国にとって80年代後半以降の時期は、良くも悪くも「金融の時代」と呼べるだろう。今回は、その頃の映画を通して、当時から現在までの米国の変貌において「金融」の果たした役割を捉え直してみたい。
米国の経済活動に占める金融ビジネスの比率は、全般的なサービス化の趨勢とともにウェイトを高めてきたが、80年代中頃からの急上昇は際立っている。それが一つのピークを迎えた87年に公開されたのが、前号でも紹介した「ウォール街」だ。この映画は、「金融時代」初期の金融ビジネスの暗部を告発している。
証券会社に勤める主人公バド(チャーリー・シーン)は、証券界の大物ゲッコー(マイケル・ダグラス)に、企業のインサイダー情報を提供することで接近する。ゲッコーに取り入ったバドは、父親(マーティン・シーン)が勤める業績不振の航空会社ブルースターを再建するため、ゲッコーにその買収を促す。ゲッコーは、その話に乗るとみせて、実は買収後はブルースターを解体し資産の切り売りによって利益を上げようと図る。裏切りを悟ったバドは、ブルースターを守るため、ゲッコーと対決する道を選んでいく。
インサイダー取引の問題については前回も触れたが、この映画の告発は、一般の事業会社に対する金融ビジネスの在り方の問題にも及んでいる。実際にモノを作ったり人々にサービスを提供している企業が、何を生み出すわけでもない金融ビジネスの金儲けの道具にされ、あまつさえバラバラに解体されてしまう。そこで働いてきた人々は職を失うことになる。金融ビジネスが一般の企業にとって大きな脅威になろうとしている。それは許されることなのか。
破壊者としての金融ビジネス
こうした問題意識は、社会派映画「ウォール街」だけでなく一般の娯楽映画にも登場している。90年の全米ナンバー1ヒット「プリティ・ウーマン」。この映画は、現代のクラシックともいうべき古典的なラブストーリーだ。主人公の一人エドワード(リチャード・ギア)は、企業の買収、売却により利益を上げる投資グループの主宰者である。彼は、ヒロインのヴィヴィアン(ジュリア・ロバーツ)と出会い恋に落ちる過程で、自分の仕事の空しさに気付き、企業買収などという「悪の道」から足を洗うことを決心する、という筋書きだ。その論理は明快だ。生産活動の主役である企業を金儲けの道具にすることは「悪」だと断じられる。主人公二人の間では、こういう会話が交わされる。
「何かを作ったりはしないの?」
「しない。会社を買うだけだ。」
「買った会社はどうするの?」
「売る。バラバラにしてね。」
「それって、盗んだ車の部品をバラバラにして売りとばすのと似てる?」
「…。まあ、そうだけど、違法じゃあない。」
彼の場合、「ウォール街」のゲッコーと違って、あくまでも法律の枠の中でビジネスを展開している。しかし、娯楽映画の規範では、それでも「悪」とされる。一体何のための仕事か、という疑問も生じる。以下は、エドワードと彼のビジネス・パートナーとの会話。
「僕たちは何を生み出してきたんだろう。」
「金を稼いだじゃないか。」
この映画の文脈では、金を稼いだというだけでは、何もしていないというのと同じだ。彼らのビジネスは、何も生み出していない、誰の役にも立っていないと捉えられている。映画の、それもラブストーリーの添え物の部分なのだから、こうした明快な割切りは当然だ。一般的な受け止め方も、これと同様だろう。しかし、金融ビジネスの役割を真剣に問い直すためには、もう少し慎重に考えてみる必要がある。
創造のための破壊
「ウォール街」や「プリティ・ウーマン」に出てくる企業買収ビジネスは、ポジティブに評価すれば、「創造」を前提とした「破壊」のプロセスと捉えられる。株価の低い企業は、資本設備や労働者の潜在的な能力を活かしきれず利益を上げられない企業だと考えられる。そういう企業は解体して、設備も人も、もっと能力を引き出してくれる企業に移した方が、全体としての生産水準は向上するはずだ。そのためには、既存の非効率企業を「破壊」するプロセスと、そこから流出する資本や労働力を吸収し新たな生産活動に結びつけていく「創造」のプロセスの双方が不可欠だ。
資本主義の理想としては、こうした破壊と創造が絶え間なく続き、経済、社会を改善していく体制が想定される。しかし、現実にはなかなか難しい。企業にしても労働者にしても、自らが「破壊」されるのは避けたいと願うのが当然だ。そのため、労使協調やさまざまな公的な規制など、「破壊」のプロセスを逃れる仕組みが積み重なっていく。日本は、それが極端に進行した社会システムを築いてしまったわけだが、程度の差こそあれ、米国もそうした傾向を避けられなかった。
ケインズ型の経済政策によって長期の好況を謳歌した60年代から一転して、ベトナム戦争の敗戦、スタグフレーション(高インフレ下の失業拡大)、さらには石油危機と、相次ぐ混乱に見舞われた70年代半ば以降の米国は、破壊と創造のプロセスは停滞し、株価は低迷を続けていた。
そこに風穴を開けたのが、映画に取り上げられたような企業買収ビジネスだったのである。80年代中頃には、全般的な株価の低迷と金利低下が重なって、買収した企業を解体、売却することで利益が上がるケースが珍しくなくなっていた。株価の低過ぎる企業は彼らの餌食になる。すべての企業が株価向上を目指して、収益性向上とそのためのコスト削減を迫られた。その結果、利益率の悪化に歯止めがかかり、株価も本格的に上昇に転じた。破壊者の台頭は、それまで停滞気味だった企業の効率化の動きを一気に活性化させたのである。
対決 乗っ取り屋vs経営者
そうした捉え方で企業買収を描いた映画もある。91年制作の「アザー・ピープルズ・マネー」。乗っ取り屋ガーフィールド(ダニー・デヴィート)と、彼に狙われた電線メーカーの経営者ジョーゲンソン(グレゴリー・ペック)の対決がストーリーの中心だ。
私としては、この映画のラブストーリーの部分も結構気に入っている。乗っ取り屋の恋の相手は、狙った会社の顧問弁護士ケイト(ペネロープ・アン・ミラー)。ビジネスの場では敵同士の間柄だ。容姿では勝負できそうにないガーフィールドだが、美人でやり手の女性弁護士に、ビジネスを絡めながら果敢にアプローチしていく。二枚目のリチャード・ギアが格好よくきめる「プリティ・ウーマン」のファンタジーとはまったく異質だが、ちょっと捻った、味のあるラブストーリーだ。
話を本題に戻そう。映画のクライマックス、乗っ取り屋と経営者の対決の舞台は株主総会だ。株主を味方につけるための論戦が繰り広げられる。主人公二人の論戦は、企業とは何か、企業を律する原理は何か、といった経済体制の根源に関わるきわめて興味深い内容を含んでいる。少し長くなるが、二人の論戦から引用してみよう。まず、経営者は言う。
「企業には、株価を超えた価値があります。企業とは、『生活の資を稼ぎ、友人と出会い、夢を見る場』です。あらゆる意味で、世の中の人々を結び付ける絆なのです。株価に惑わされず、生産の場を守り、お互いに愛し合える社会を大切にしてください。」
乗っ取り屋の答えはこうだ。
「この会社はもう死んでいる。新しい時代、新しい技術。この会社ももう生き返らない。死んだ会社に投資を続けていてはダメだ。」
「私は株主の友達だ。乗っ取り屋は何も生み出せない?それは違う。私は株主のために、死んだ会社から金を作り出すことができる。それを別の投資に回すことで、新しい産業、新しい雇用が生まれ、社会に貢献することだってできるのだ。」
この勝負、勝ちを収めたのは乗っ取り屋だ。「悪」が滅びた「ウォール街」や「プリティ・ウーマン」とは違った非情な結末だ。しかし、ラストシーンでは、死んだはずの電線メーカーが復活する可能性と、乗っ取り屋のラブストーリーが続いていく明るい希望が示される。やはり、映画のストーリーは、現実の経済や金融理論ほどには非情に徹しきれないということなのかもしれない。
本番を迎えた金融時代
現実の米国経済では、90年代に入ると、乗っ取り屋の台頭が株価を押し上げた結果、映画に出てくる企業買収のような、解体して売却するだけで利益が上がるケースはほとんど消滅した。「破壊」のスペシャリストの時代、金融時代の草創期は幕を閉じたのである。
破壊的な乗っ取りが影を潜めても、買収の脅威が消え去ったわけではない。経営の再建で企業価値を高めるという手法は、引き続き通用したのである。買収を狙う側も防ぐ側も、主役は企業経営のプロ、それも企業価値すなわち株価を高める能力を持った経営者だ。その能力の基礎となるのが金融理論である。
ここでいう金融理論とは、資金貸借などの金融取引に関する範疇にとどまるものではない。金融市場で価値を評価される存在としての企業を、いかに経営していくかの指針ともなる理論である。企業経営を律する理論ということもできる。
また、ビジネスとしての金融も、従来の資金仲介のパイプ役としての機能を超えて、企業経営を外部からサポート、あるいは監視する役割を担うようになっていった。そうした新しい方向性での展開が、経済活動における金融ビジネスのウェイトを急速に押し上げたのである。
金融ビジネスに携わる人のなかには、映画に登場した乗っ取り屋たちに匹敵するような収入を手にする者も少なくない。それほどではなくても、金融理論を修得し、金融ビジネスの中枢を占める人々の多くは、他の産業では考えられない巨額の報酬を獲得するようになった。
90年代の米国は、金融理論に統治され、金融ビジネスが巨大な収益を上げる本格的な金融の時代を迎えたのである。金融理論に基づく効率化、収益性向上への圧力は、90年代の米国経済を活性化した。その結果、マクロ経済はきわめて好調に推移したが、そこに組み込まれた個々の企業や個人にとっては、常により高いパフォーマンスを要求される厳しい環境だったことも確かである。
国境を越えた「金融の時代」
金融理論と金融ビジネスの荒波は、米国から発して、市場経済化した世界のあらゆる地域を巻き込んでいった。
もちろん、日本も例外ではない。企業に対する評価は、株式市場で定まる形が定着した。日本の金融機関は依然としてバブルの傷跡に喘いでいるが、欧米の金融機関が、金融時代の主役として力を振るっている。そうした外資系の金融機関では、米国のビジネス・スクールなどで金融理論を修得した数多くの日本人も活躍している。
日本経済が秩序を喪失していたバブル期の負の遺産については、株式市場という断罪の場で、金融理論に則った処理が進んでいる。株式市場に見捨てられた企業は、いくつかの大手金融機関も含めて「破壊」された。また、大胆なリストラ策を打ち出す企業が相次いでいるのは、「自己破壊」のプロセスが本格化したことを示している。こうなると、あとは「創造」のプロセスを起動させることが課題となってくる。
90年代の米国では、乗っ取り屋の「破壊」の横行を機に株価は上昇に転じ、'Jobless Recovery(雇用なき回復)'の数年を経た後は、情報技術を軸とした新たな「創造」のプロセスが一気に動き出した。
日本でも、99年にはじまった'Jobless Recovery'を端緒に、規制緩和によって情報革命にともなう「創造」のプロセスを起動させる、という筋書きは考えられる。ペイオフ解禁は延期されたが、さまざまな産業保護政策を後退させて、「破壊」を一段と進めることも必要になるだろう。
とはいえ、金融時代の経済の枠組みも、決して万全ではない。それどころか、先行する米国においても、現在の体制が一気に瓦解する可能性さえある。
最終回となる次回では、金融時代が内包する本質的な問題を、映画を通して捉え直すとともに、金融ビジネスの将来像を考えてみたい。
今回の映画
ウォール街
製作:1987年 米国
監督:オリヴァー・ストーン
出演:マイケル・ダグラス、チャーリー・シーン
プリティ・ウーマン
製作:1990年 米国
監督:ゲイリー・マーシャル
出演:リチャード・ギア、ジュリア・ロバーツ
アザー・ピープルズ・マネー
製作:1991年 米国
監督:ノーマン・ジュイソン
出演:ダニー・デヴィート、グレゴリー・ペック、ペネロープ・アン・ミラー
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