人の命や健康をあずかる医療の領域、ことに直接患者の治療にあたる医療サービスの領域は、いつの時代にも、その本質的な位置付けから、産業やビジネスの視点からのアプローチがはばかられる領域であった。命や健康はお金に換えられないという動かし難い理念が存在しており、価格メカニズムや競争原理、受益者負担といった経済、ビジネスの原則が入り込み難かったためである。
そのため、医薬品や医療器具の開発・製造の領域では世界規模の巨大産業が成立する一方で、医療サービスの領域では、営利企業の活動は制限されてきた。しかし近年では、そうした状況も、大きく変わりつつある。
まず、医療の供給サイドにおいて、コストの膨張が限界を超えつつあるという現実がある。医療サービスの受益においては平等が旨とされ、公的な保険制度の下、受益者すなわち患者は経済的な負担力に関わらず、相応な医療を受けられる仕組みが築かれてきた。そこでは、効率化やコスト抑制のインセンティブは効きにくく、医療費は拡大を続けてきた。
さらに、医療水準の向上の結果として長命化が進んだことで医療サービスの受益が多い高齢者層の比率が高まったこと、加えて、医療技術の進歩によって、より効果的ではあるが高コストな医療サービスが開発され続けていることも、いずれも喜ばしいことである反面、医療コストを押し上げる要因となっている。
これらの結果、健康保険の財政はすでに危機的な状況に陥り、加えて多くの病院が赤字に悩むことにもなっている。それにともなって、医者や看護師らの医療スタッフの投入が抑えられ、彼らに過酷な労働を強いるだけでなく、医療サービスの質の低下や、医療ミスが相次ぐ状況につながっている。
こうした状況を受けて、医療の領域にもコスト意識の導入が避けられなくなってきた。この問題は、高邁な理想だけでは解を得ることは不可能だ。理想と現実の間で折り合いを見つけ、最大限のコストパフォーマンスを発揮できるシステムを構築することが要求される。そこに、産業やビジネスの視点を持ち込む意義が生じてくる。実際の事例を見ると、病院経営のコンサルティングや開業支援、資材調達、ITを活用した遠隔診断、遠隔医療の仕組み作りなど、産業的なアプローチは、制度の変更をにらみながら、すでに多岐に渡っている。
他方、医療の周辺分野である「健康」や「介護」の領域が、近年急速に産業化されてきていることの影響も大きい。
所得水準、消費水準の高度化の結果、衣・食・住の基本的なニーズがぼ満たされたことで、日本の消費者の欲求は、「娯楽」や「教養」そして「安心」、「健康」といった分野へ軸足を移してきた。その結果、医療の周辺分野に位置付けられていた「健康」の分野が、新たに独立した市場として急速に成長を遂げつつある。関連する商品やサービス、情報の提供など、一説にはすでに20兆円規模に達したと言われる健康市場には、すでに多くの企業が注目し、参入してきている。
また、現実的に医療の領域とは切っても切り離せない介護の分野においても、高齢化の進行にともなって、いわゆる「老老介護」の問題に象徴されるように、家族の労力と経済力だけでは十分な介護をしていくことが難しくなってきている。それを受けて、介護保険の仕組みが導入され、実際に介護サービスを提供するさまざまなビジネスが登場している。
「健康」と「介護」という二つの主要な周辺領域が産業化したことは、物流や情報提供などの付帯機能の外部化をはじめ、中核となる医療の領域への産業的アプローチを一段と活発化させることにつながるものと考えられる。
命や健康はお金に換えられないという大原則が前提にある以上、医療の領域における産業やビジネスの役割は、あくまでも補助的、補完的な位置付けにとどまるだろう。しかし、現在の医療システムが限界を迎えていることを前提にすると、産業的なアプローチがどれだけの実行力は発揮できるかが、医療に携わる人々とその受益者の双方にとって、きわめて重要な意味を持つことは、ほぼ間違いのないところだろう。
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